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相対化と絶対化の狭間で~架神恭介/辰巳一世 『完全教祖マニュアル』を読んで~

書評
11 /25 2009
かがみさんの本を読むのは初めてなのですが、
おどろくほど納得できたので自分でもビックリしました。
今まで読まず嫌いだったのかもなぁと反省したのですが、
最後に挙げられていた参考文献も90冊(!)にのぼりますし、
辰巳さんと分担してるとはいえ相当宗教を勉強されたんだなぁと本当に素直に感心しました。
ゲームやってるだけじゃなかったんだね!

本書は教祖への道を教えるマニュアル本なのですが、
タイトルはかなり秀逸でニヤニヤしながら読み進めました。
特に第七章の甘い汁を吸おうというタイトルはお気に入りです。

しかも本書はニヤニヤしながらも宗教の知識が身につくというスグレモノです。
宗教の入門書としては、邪道に見せかけて正道なのやもしれず、
かがみさんの罠に良い意味でハマってしまいました。
これまで正直ゲーマーだと思ってたんですけど作家だったんですね!

多少子細に見ていくと、
「教祖になるのは人々をハッピーにするため」という主張には大いに頷きました。
元来宗教は人を幸せにするために存在するものだと思うからです。
「その人が幸せならそれでよい」と僕も基本的にはそう思ってます。
(そう思ってない部分もあるんですけども)

また科学信仰を批判していたのは意外だったのですが(でも完全に同意です。GJ!)、
よく考えたらかがみさんはバリバリの文系なので自然科学信仰とは無縁だったなぁと思いました。

なぜかがみさんは科学信仰してるんじゃないのと勘違いしてたかと言うと、
科学信仰者とかがみさんの共通点としては非常に合理的だと言う点があります。
そういった合理的視点で、本書は宗教の合理性が再度に渡って語られています。
僕もかがみさんの言うとおり、宗教の教条は非常に合理的だと考えられます。
(詳しくないですが、本書にも書いてあるとおり仏教なんて特に)

そして超越的思考を謳っているのに宗教は世俗にまみれているとも本書は言います。
僕も全くその通りだと思います。
生きていく以上どうしても飯のタネが必要になるのであり、
それはキリストだってムハンマドだって変わらなかったはずです。

本書が分かりやすい理由はここにあるのではないでしょうか。
「合理的」で「俗っぽい」宗教。
まさに現代人にうってつけのものではないですか!(少々皮肉っぽく)
本書で述べられている宗教は
「非合理的」で「神聖」な訳の分からない宗教よりも断然に分かりやすいものです。
現代に生きる我々はかがみさんの語る宗教に親近感を感じること間違いなしだと思います。
そして同じ現代に生きる僕もこういった合理的宗教解釈に非常に引きつけられ、
同意し納得しました。(ホントに)

で・す・が(こっから反論するのサイン)

結局本書は宗教を分かりやすくするために我々の身近な所に引きずり下ろそうとしています。
そして分かりにくい部分は引きずり下ろす時にカットしています。
これがわざとなのかそうじゃないのかは判断が難しいのですが
なぜカットになったかと言うと、
説明できない部分は説明しても意味がないとするのが「合理的」だからです。
合理的なかがみさんが合理的な判断をするのには特に理由はありません。
その判断は「合理的である」という事で簡単にチョイスされます。
かがみさんが本書でネタにしてるのと同じ事をするならば、
「合理」という信仰がここにあるということです。

「ムハンマドが言ったから」「合理的だから」
全く違うようですが、判断基準になっているという点では同一です。

一体「合理が正しい」という前提が合理的だとは誰が決めるのでしょうか?
自分の答えを自分で言ったようなものですが、
前提とは常に仮定であり、「正しいと言うことにする」と言うことです。
そこから演繹されて論理が生まれるのですが、
自然科学だろうと社会科学だろうと、
突き詰めれば「前提が正しいのかどうか」を問わざるを得ないのであり、
そういう意味ではいつかは宗教的次元に肉薄するとするのが妥当なのではと思います。

本書に戻りますと、
何度も「本書を信じなさい」と書いてあるように本書は聖書であるとかがみさんは言います。
しかしもう少し言うと本書は聖書のパロディなのであり、不信心な信心書なのです。
なぜならかがみさん自身は『完全教祖マニュアル』を信じていないのです。
これがマニュアル本でないのはかがみさん自身が本書を実践していない事からも明白です。
実践者なんて一人もいないのはかがみさんも承知でやっているのですが、
そうだとこの本は消費されると読者の中でそこで終わってしまいます。
「それでいいのだ」と言うことなのかもしれませんが、
僕には少し物足りなさが残りました。

かがみさんは超常的現象を一切信じていないのであり、
このままだと信仰とは永久に平行線を辿るのではないかと思われます。
かがみさんは宗教という価値の絶対化へ歩み寄ろうとしないのであり、
徹底した相対主義な観点から本書は書かれています。

しかしながらすべてが「人それぞれ」であったとするならば、
その人が選び取る行動はなぜ選び取られるのでしょうか?
完璧な相対主義者は何も判断できないはずです。
なぜかというと自分と他人の行為の優劣が付けられないからです。
そして無自覚な信仰者は自覚的な信仰者よりも遙かにタチが悪いです。
彼らは自分たちが正しいと言うことに全くの疑問を持たないからです。
自分の判断に全く疑問を持たない事が狂信でなかったら一体何が狂信なのでしょうか。

個人的見解を述べると、「スピリチュアルにも一分の理あり」と言うことにしたいのです。
なぜなら自分は人間の認識に絶対の信頼を置けないからです。
つまり神は「いないとは言えない」存在なのではないでしょうか?

不可知論者の眼前には悪夢や絶望は存在しません。しかしまた愛も夢も希望も存在しないのであり、
事実しか存在しない世界というのも多分に退屈なのではないでしょうか。

「宗教のオカルト的な面は気持ち悪いよね」と言うのなら(いや完全に同意なんですけど)、
「真剣に祈ってる人はなんだかバカにできないよね」とも言わないと
片手落ちなのではないかとどうしても思っています。

今度の宗教関連の本では、
是非「聖なる感覚とは何か」についてかがみさんに語ってもらいたいと思っています。

「それ語ってもらった方が宗教チックで布教しやすいですし」

と軽口を叩いてこの駄文を終わりにしたいと思います。
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