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母性とは無条件なものなのか

社会系評論
07 /10 2009
師匠が修さんの質問で困ってるから助けるフリをしてもっと困らせようと思います
(いつものカンジね!)。
エヴァに関しては今モチベが下がってるんで、上がったらまたやる・・・かもしれません。

質問の意図とは違うのかもですが、母の愛が無条件なのか否か。
少し細かい話になるのですが、
例えば兄弟がいる場合母の愛は等しく均等に兄弟に降り注がれるのでしょうか。
答えありきで申し訳ないんですけど、
そんな事はなくて母親も人間なので苦手な子供と接しやすい子供がいるはずです。

簡単に言うと母の愛は不均等です。
もっと言うと時間も有限なので、構っていられる時間も限界があります。
まぁ母性があっても愛されない子供もいると言う事です。

他の話をすると、世に言われる教育ママ達は一体誰のために
子供をいい学校へ行かそうとしているのでしょうか?
「子供のため」それも事実だと思います。
一般にいい学校に行けば有名な企業に入れ、食いぶちの心配はなくなるでしょう。
ただ、それだけなのでしょうか?

これも答えありきで申し訳ないんですけど、
僕が思うに往々にして母親の虚栄心を満たすために子供は利用されます。
母親同士の競争のために利用される場合があるのです。
つまり、母親の「自分の人生への復讐」の側面は否定できないのではないでしょうか。

子供は親の玩具になる側面があると言わざるを得ません。
体だけ大人になった子供が子供を産むとこの要素が高まります。
そしてそれがかつてない程に高まっているのが現代です。
小さければ小さいほど子供は親を拒否できません。
名前も、食べ物も、遊び道具もすべて子供から見れば「与えられる」物です。

そんな要素を一切無視して少子化だからとにかく子供が生まれればいいとか言ってるのが
一般的に偉いって言われてる人達なんですけど、なんていえばいいんですかね、
お前らが死んだら計算の分母が減るから死ねよとでもとりあえず言っておきます。
(多少ダーク)

話がずれたので戻すと、
そもそも母性は誰にでもある物なのでしょうか。
虐待され亡くなる子供の母親は皆等しく異常者なのでしょうか。
というより、母性がない女性はおかしいのでしょうか。
「自分の子供を愛せない」という悩みを新聞に投書する母親はおかしいのでしょうか。
逆にどうして父性のない父親は母親に較べて批判されないのでしょうか?
父親が自分のお腹を痛めて生んだものではないから、
子供を自分の子供だと思えないという話がありますが、
自分の子供だと思えなかったら育児に関わらなくても責任はないのでしょうか。

結局ですね、母性というフレーズで育児の責任を
母親に過度に押しつけてるのが今の状況です。
育児放棄があると、母親の方に
「お前には母性がないのか」なんていう心ないセリフが容易に吐かれます。
別に育児した事ないので想像なんですけど、
思うに、例えば一日中何の理由もなく子供に泣かれたらイライラするのが普通です。
眠りたいのに夜泣きで泣かれたら疲れるに決まってるじゃないですか。
それを「子供はかわいいから育児は楽しい」とか言ってごまかしてやらせるから
おかしい事になるんじゃないですか。
父親が助けてくれなかったりしたら尚更ですよ。
昔ならおじいちゃん、おばあちゃんがいましたけど、今は近くにいないんですよ。
育児はツラい事だらけで、イライラした時は子供が嫌いになっても普通じゃないですか。

で、仮に母親の愛が無条件だとすると、僕たちはどんな存在でも愛されることになります。
そうなると母親に愛される事と、僕たちの努力や気遣いは相関がなくなる事になります。
難しく言っただけなんですけど、「おかあさん毎日ありがとう」って言ってくる子供と
「クソババア死ね」って言ってくる子供を
どうして同じように「無条件に」愛さないといけないのでしょうか。

母親が育児をする必要があるのは自分が生んだ責任があるからです。
(もちろん父親にもあります)
人間は自分の意志で生まれてくるのではなく、常に生まれさせられる存在です。
親は子供に責任能力が芽生えるまで育児をしなければなりません。
これは社会的にも強要されている部分です(師匠も似たような事言ってたでしょ?)

言いたい事は「自分の子供は無条件でかわいい」と言うのは欺瞞です。
母親は母性によってというよりも、
子供を好きになるように努力して、そうして僕たちは育てられてきたんですよ。
それを「無条件(母性)」と言ってしまうと、
母親に育てる力が初めから備わってたから子供が育ったんだって話になってしまいます。
確かにそういう部分もあるんですけど、
母親の努力がなかったら僕たちは今ここにいないのです。
そしてその努力をなおざりにする発言には異議を唱えざるを得ません。

個人的に振り返ると両親とも殺してやろうかと思うようなシーンもあったんですけど、
憎々しげにでも「育ててくれてありがとうございました」と言わざるを得ないのかなと。
今生きてなかったら何かを感じたり考える事もできなかったんですから。

こんな所に書いてないで電話でもしてやれ的ムードになったんですが、
母の愛も有条件なんです(他の関係に較べたら条件は少ないですが)。
そして、それを受ける僕たちも有条件で受けるのです。
つまりお互いの関係はお互いの努力で成り立っているはずです。

有条件的とは「理由がある」ということで、
自助努力の介入する余地があるということです。
つまり僕たちの行動により、好かれたり嫌われたりすると言う事です。
もちろん相手が好きになるか嫌いになるかは向こうの判断ですから、
相手のその判断は自分にとって不公平に感じますが、
僕たちは干渉(もしくは交渉)する事が出来ます。
そこで合意が形成された時に関係が成り立ちます。

合意がない関係は往々にして従属になり、隷属になります。
付き合ってる相手に何も言えず、
向こうの言うがままじゃないと維持できない関係は果たして対等な関係なのでしょうか。

要は条件が付かない関係こそ不均等でおかしいんです。
個人の主体性の関与する余地がない状態(努力しようがない状態)は
そもそも自分ではどうしようもないので議論のしようがありません。
確かに好悪なんてフィーリングなんですけど、
無条件に愛されると、自分じゃないといけない理由がDNAレベルでしかなくなります。
それは自分がいない事と同じです。

つまり向こうが有条件で付き合ってくるのは人間関係上当然なんです。
経済的な意味ではなく精神的なものでもペイしてリターンがなかったら
その状態はいつか終わります。人間は不公平な交換を続けないように出来ています。

まさか向こうには無条件の自分への愛を望むけど、
自分はいろいろ条件提示するよなんていう不平等な関係を「愛」とか言いませんよね?

愛と言うと大仰ですので信頼とでも言ってごまかしますが、
何もしてないのに無条件に信頼される事と、本人の行動の結果勝ち取る信頼と、
一体どちらが僕たちにとって大切で必要なのでしょうか。

答えっぽいのを提示すると僕としては後者が大切だと思うのですが、
前者の経験がないとまず人に与えることができないという
エヴァの登場人物的苦しみを味わう可能性が高まり、
前者の経験が過多でも人に与える必要を感じないという
甘えた坊ちゃんになる可能性が高まります。

要は自分に与えられてきた前者の経験がなんであれ、それを乗り越えて
人に与える事で信頼を得る必要があるんじゃないでしょうか。
ただ感覚としてはそれは容易ではない事だなぁ~とは思ってるんですけど。

うーん、修さん読むかな~、師匠の言う事が全部正しいと思うよ(逃げた)。
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けった

2017年はほどほどに

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