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脳死とは人の死なのか

社会系評論
06 /24 2009
臓器移植法改正案が衆議院で成立した今日この頃、
やはりこのテーマについて考えなければ
この国の国民とは言えないのではないでしょうか?(やや大げさ)

まぁもうニュースで知ってると思うんですけど、
A~D案まであって、A案が可決されたんですけど、今までと違う点は

・脳死を一律に人の死とする
・15歳未満の移植を可能にする
・本人の拒否がなかったら家族の同意で移植可能

ですかね。多分細かく見るともっと違うんでしょうけど。

情けない話で共産党以外の党は自由投票になったんですね。
つまり、党としてまとめる事を放棄したって事なんですけど、
それだけ難しいテーマだと言う事ではあります。

背景としては海外渡航して移植を受ける事が難しくなった事が挙げられるようです。
まぁ新聞情報なんですけど、
国際移植学会が自国の希望者は自国で解決するように促したんですね。
知らなかったんですけど、
米国に移植希望で来る外国人のほとんどが日本人で、批判の対象になっていたんです。
つまり、日本から行くと、それだけアメリカで必要としてる人に供給されなくなるという
普通の事実なんですけど、要はお金で他国民の臓器を買ってたんです。
そしてそれが嫌がられるようになって(元から嫌がられてたんでしょうけど)、
最近では法外な金額で逆に断念させようとさせられてる状態らしいです。

とりあえず事実としては条件付きで命はお金で買えるんですよね。
でもそれを殊更騒ぎ立てたい訳じゃないんです。
そんなのは資本主義になってからの当然の事実で、
というよりも昔も為政者はその当時の最高の治療を受けてた訳ですし、
当たり前ですけど平等じゃないんです。
もっと言うと普通に生まれてくるか、病気を持って生まれてくるかも違う訳だし、
生まれながらに不平等なんです。

ただですね、日本の子供の命を救うっていうヒューマニズムが
他国民に迷惑をかけていたのは日本人として反省しないといけないんですよ。
移植が必要な方(だった方)と関係者の気持ちを全く忖度してないのは認めるんですけど、
命を助けようの美名の元に犠牲になった人がいたと思うんです。

そこでですね、僕は日本の法律で海外渡航による臓器移植は禁止にすべきだと思います。

世界的な流れでそうなってるから、そうしなくてもそうなるんでしょうけど、
海外渡航は裏ルートなんですけど、それしか助かる道がないから
当然生きたいし救いたいから家族は頑張らざるを得ない訳で、
また頑張らなかったら家族はあとで死ぬほど後悔するじゃないですか。
だから人生を投げ出して募金活動とかしないといけない状態なんですよ。
それをまず絶って、国が恨まれ役になるしかないんじゃないかなと。
今だと関係者側の負担が大きすぎるんで、残酷ですが
どこかで「あきらめさせる」システムが必要になるのかなと。

その上で、国内の移植をどうするか。

そもそも臓器提供が可能になったのは、医学の進歩が挙げられます。
医学の進歩によって、それまでなら助からなかった人が助かるようになりました。

僕は「今までなら死んでいた人が生きているようになる」のが医療の進歩だとしたら、
脳死者もこれに当てはまると思うんですよ。
呼吸器があれば生きていられるのなら、生きているじゃないですか。
医療の進歩が脳死者を生み出したんです。

つまり脳死は人の死ではないと僕は思います。
順番的に言うと臓器移植が行われるようになってから
脳死の問題が発生したみたいなんですね。
あまり僕を信用はして欲しくないんですが、そもそも脳死判定が生み出されたのが、
臓器移植するための話だというのが正確みたいです。

そもそも論理的に考えて臓器は生きているから提供できる訳で、
基本的に臓器移植は生者から生者への提供なんですよ。
死者から生者への移植というのはまやかしで、
実際延命治療を本気でされた患者の臓器はほとんど使い物にならないらしいんですね。

人命が大切だとしたら移植される側の人命も
移植する側の人命も等しく大切にしないと行けない訳で、
まず移植する側の治療がきちんとされないといけないと言う事です。

移植はその後の話なんですけど、
前述したようにきちんと最後までベストを尽くすと臓器移植はほぼ不可能です。
ですので、ここにおいて移植を可能にするには、移植する側の意志が問題になってきます。

つまり、「ほとんど死んだ」状態になった場合、
「延命をあきらめて」「他者に臓器を移植する」という考えで移植をすると言う事です。

青臭く言えば、生者から生者への意志の繋がったバトンであるから
臓器移植にギリギリ人間らしさが保たれるとした方がいいんじゃないでしょうか。
つまりですね、ほとんど死んだ時はまだ生きられる可能性が高い人に後を託すという事で、
それが成立しなかったらどこまでも人間の商品化、部品化は止まりません。
もちろん人間はすべてのものを商品化してきたので、
人間の商品化のすべてを否定するような野暮なマネは避けたいんですが、
今の状態だと不均衡が拡がるだけです。

アメリカは年間5000例臓器移植が行われているんですが、
その一方で国民皆保険がないので、貧乏で盲腸の手術も受けられない人もいるんですね。
つまり日本じゃ考えられないほど医療に対する不均衡があると言う事です。
なんでもそうなんですけど、不平等すぎると社会的紐帯が崩壊します。
ですので、社会としてどうするのが安定するのかという視点で考えないといけないと
僕は思うんです。

で、意志の問題に戻るのですが、
子供の定義が15歳という年齢が区切りとしていいかどうかは法学者に任せるとして、
ここで考えておきたいのは、子供に意志決定能力があるのかどうかと言う事です。
僕としては全くないとは言わないですが、
大人と較べると相対的にないと言わざるを得ないとします。
簡単に言って大人の臓器提供よりも子供は慎重でなければならないという事です。
そうでなければ子供は社会的弱者なので、臓器を搾取される可能性が高まります。
児童ポルノが厳しくなっている論理と同じで、
子供は保護する対象で守られなければならないということです。

子供の臓器提供に関しては日本の方が世界よりも正しい気がします。
医療のレベルに対して移植数が少ないと言う意見は妙で、
医療のレベルが高いから延命措置を取れる訳で、
そして延命したら臓器提供できないっていう話も成り立つじゃないですか。
だいたい生命の話なんだからキリスト教的倫理観を持つ国家と較べて
多いか少ないかなんて話をするのがおかしいんですよ。

ここで個人的な話をすると、僕が脳死になったら死んだと判断してもらって構わないです。
結局ですね、僕自身は思考できない状態もしくは
他者と思考を通わせる事ができない状態になったら
体が生きてても死んだと判断してもらいたいんですよ。

ただですね、身近な人が脳死状態になったら
さっさと臓器移植するかと言ったらそれは疑問というかしないですね。
そんな重大な決断をおいそれとできるのか。

つまりこれは死を個人的なものと捉えると
僕の意志が最優先で僕が脳死になると自動的に臓器提供されるのですが、
有り体に言って死とはコミュニティのものなんですね。
僕の死は身内の物であり、友人の物であり、所属組織の物であり、日本の物であるのです。
(もちろん濃淡はありますよ)

ですので、関係者の合意が必要になるんです。
僕の臓器が取られていく事で家族がその後後悔したらダメなんです。
僕は「ほとんど死んだ」時に、
自分から死を選ぶことをあらかじめ身近な人に納得してもらわないといけないんです。

なので、そう言った話し合いの場が事前に必要なんですけど、
そんなこと僕も全然してないですし、今の日本にそういった場もないですし、
死とは何かについてもうちょっと話し合う気がないと
臓器提供なんてそもそも無理だと思うんですよ。

だいたい一方の家族が悲嘆に暮れて、一方の家族が歓喜に震えるという構造自体が
酷く不均衡な訳で、お互いの家族がある程度心を通わせられて納得できる関係じゃないと、
いろいろ問題が起きてくると思います。

だから死について考えないといけないのにですね、
今回の法律の「一律に」死と判断するという文言はふざけてて、
結局「死とは何か」を考える事は放棄しますって言ってるも同然なんですね。

いちいち怒っても仕方ないというか、別に当事者じゃないので怒りようがないんですけど、
今回は法律で決めたんですけど、制定法が生きるためには慣習法がないとダメなんですよ。
というよりも、「良識」が生きていたら多少法がザルでも何の問題も無い訳で、
逆に良識がない社会だったら臓器移植なんて悪い事し放題なんですよ。

人命尊重の観点から問題になっている臓器移植なんですが、
でも不思議な気がするんですよね。
毎年交通事故で年間6000人死んで、3万人自殺してるんですよね。

生活の便利さのためなら多少の犠牲はやむを得ないって暗黙的に認めてるし、
過労死とかメンタルがおかしくなるまで働かせるシステムも稼働してる中で、
なんで人の命に軽々しく尊厳とか言えるんですかね?

脱線しますけど、
こんにゃくゼリーで喉を詰まらせて死んだ人が出て製造中止になった時があって、
ネットで販売再開運動が盛り上がった時に凄いイヤーな気持ちになったんですよ。
確かに喉を詰まらせて死人が出たら製造中止にしないといけないなら
餅とかもっと危ないのがあるんですけど、それにしたってですね、
こんにゃくゼリーがないと死ぬって人はいない訳じゃないですか。
そんなにお前らこんにゃくゼリー毎日食べてないだろって。
そんなにこんにゃくゼリーに執心してなかっただろって。

「他人の死よりも自分がおいしくこんにゃくゼリーを食べる事が大事」なのは
事実なんでしょうけど、そんな事実あからさまにしちゃいけないと思うんですよ。
逆に言えば他人からしたら自分の命がこんにゃくゼリー以下だって認めてるようなもんで、
命が地球より重いなんてウソなんですけど、
こんにゃくゼリーよりは軽くないと思うというか思いたいんですよ。

とどのつまり僕としては人命の尊さとかいう下らないヒューマニズムにも
機械的に臓器提供して人命救助するしょうもない現実主義にも与したくないんですよね。

難しい話だったので、これが解答だとは思ってないですし、
僕の意見だと臓器移植で助かる人と特に子供には残酷なことを言っているので、
自分でもまとまらない部分があります。
でもまぁ考えるしかないかなと思うし、みなさんも考えていただければって事です。

最後になりますが、
現代はおおまかに自分がどのような状態になったら死んだと言う事なのかを
はっきりとかつ細かく言明しておかないと、
自分で死ぬ事すらできない厄介な時代だと言う事なんじゃないでしょうか。

そう考えると医学の進歩は複雑な宿題を残してくれた訳で、
素直に言祝ぐことが僕にはできないんですけど、みなさんはどうなんですかね?

とでも呟いて終わりにしたいと思います。
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