ひたすら俗から聖を考えてみたい

社会系評論
04 /02 2009
師匠と遊んでたら3月が終わりました。けったです。
いやー、でもあの一連の書き込みは僕じゃない・・・って
もう4月1日は終わってましたね。

いろいろちょっかいを出した中で、
「魂は信仰なのか」という問いに答えてもらったんですが、
実は魂が信仰かどうかよりも信仰自体をどう捉えてらっしゃるのかに
興味がいっていたので、自分でも信仰の話をしようかなと思います。

「信仰」なんて軽々しく語れないものの筆頭なんですが、
ここは若さ故の過ちを利用して割とまっすぐ行こうかなと思います。

と言いつつタイトル通りいきなり聖から離れて俗を語り出します。
俗の反対語が聖じゃなくて雅らしいんでいきなり挫折しそうなんですが、
気にせず行こうかと思います(気にして!)。

思いつきのきっかけは本を読んだからなんですが、
正直に読んだ本を挙げると、
春日武彦著「問題は、躁なんです 正常と異常のあいだ」
という本なんですが、躁状態になると願望が極端に俗っぽくなるらしいんですね。

適切に引用は出来てないので気になる人は原典を当たって欲しいんですが、
躁状態になると、女性で言えば露骨にブランド品に走ったり、
金ピカなものを買ったりします。
ホストクラブで豪遊してる中には躁状態の人がいるようです。

男だとせっかちで豪胆になって、パンピーなのに
「社長になったらベンツだな」とか言い出して金もないのにキャバクラで豪遊、
その上セクハラしまくって「英雄、色を好む」とか言い訳したり、
ギャンブルに有り金全部はたいて無くなったあとに
「俺は男だ!」とか訳の分からない言い訳をするらしいです。(引用っぽいの終わり)

どうしても笑ってしまうんですが、(むしろ本書は躁の複雑な様相を書いた本でつ)
ここで言いたいのは躁病の人をバカにしたい訳ではなく、
むしろ病気でもないのにバカな人の方が問題だよねとか
相手が漠然とした問題発言は置いといて、
お金が欲しいとか異性にモテたいとか
地位や名誉が欲しいって言うのは誰にでもある欲求だと思うんですが、
それが度を越した上、異常の域にまで達すると、
やはりそれには「嫌悪感」というのを持たざるを得ないんですよね。

たまにある「所詮世の中は金と知恵」とかまぁ「地位」とか「名誉」でも良いんですけど、
実際に純粋にその原理で行動してる躁の人を見てるとやっぱり変ですよね。

この「嫌悪感」って言うのは一体どこから来るのかななんて考えるのですが、
要はこの嫌悪感のずっと向こうの逆側に「聖」があるんじゃないかと僕は思ってる訳です。
「聖」を感じるにはほど遠い現代を生きてるちっぽけな僕には、
こういった形でしか「Holy」を語れないのかなと申し訳なく思うのです。

俗へ向かえば向かうほど逆の状態を考えるのが普通の心理で、
そしてその時の方向はおそらく「聖」を向いている(はず)です。

近代日本はだいたいデフォルトでうちら無宗教だよねーとか
ヌカしていらっしゃるんですが、その割にはオカルトがはびこってるし、
科学とか技術への無批判の「信仰」がありませんかねと
言いたくもなるこんな世の中じゃポイズン(また反町)

実際僕が「聖」なるものを感じた事があるかというと、
それは幸か不幸か多分ない訳ですが、
やっぱり自然とか見てるとあーなんか人を超越した存在があるのかなとか
漠然と考えてしまいます。

僕より1億倍ぐらい感受性の強い人達がそこに神を見出して
神道を作り出してもまぁ普通なんじゃねーの?
とかなんか逆に信仰をバカにしてるような感じになりましたが、
何となく言いたい事は宗教はそれが存在するメリットがあるからあるんだよねって
言う話は基本同意するんですが、そこを強調しすぎて超越への志向というか、
「聖」なる感覚を軽視するのは少し違うんじゃないのかなと言う事です。

その感覚すらメリットだと言われたら困るんですけど、
自分が「感じられない」から「存在しない」って言うのは少し傲慢な気がします。
おいおいそれならオカルトも認めるのかとなりますが、
そこは伝統宗教に備わる「時間の効果」を信じると言う事です。
有り体に言うと、何千年も残ってきた事には何か意味があるだろって事です。

ちょっと話が変わって宗教を置いておいても、何かを信じないと何も出来ない訳で、
選択とか決断する時にはそれまでの思考を中断させる必要があります。
少なくとも「信じる」フリをしない事には何もできないのです。

要は基本的な行為には真善美を追い求める運動が備わるはずだよね
(もちそのカウンターとしての偽悪醜も含めますけど)という話で、
ここでかがみさんのアーティスト活動の話を唐突にすると、
かがみさんの表現は「美」ではなくその反対の「醜」を目指す表現なのかなと
思っているのですが、「醜」が生きるためには「美」が確立されている必要があります。

つまり「何が美しいか」が揺るぎない時にこそ、これが本当の美だ!って
言ってうんこを投げつける行為に意味が生まれるのであって、
「何が美しいかは人それぞれ」とか言うしょーもない事が言われてる時に
うんこを作ってもその行為がうんこだよねみたいな話になる訳です。

簡単に何が言いたいか言うと、偽悪醜を目指す行為は真善美のカウンターでしかないって事です。
俗を志向して極めるって言うのは常人には不可能です。
そしてその先に何もないのは前述の躁の人が教えてくれているような気がします。

ついでに言うと、「何が美しいかは人それぞれ」って言うのは相対主義で、
この意見を本気で通すとかがみさんのうんことダヴィンチの絵画の
どちらが美しいかの判断ができなくなります。
そんな脳みそはうんこなので、世の中うんこだらけになるんですが、
要はかがみさんと相対主義者は同じ穴のムジナなんですね。

かがみさんはパンクなので体制に逆らうのですが、
その体制自体が既に作られたものであって(ex.政府、官僚、政治家、伝統、既にある物とか)、
本当の体制は今は世間という得体の知れない化け物じゃないですか。

まぁ要はかがみさんは世間になんとなく漂う意見に棹さして遊んでるだけだよねって
また悪口なんですけど、「何に」逆らうのかが曖昧になって
逆らう事自体が習い性になってるんですよね。
そう言う意味では「何でも逆らうのが正しい」というのが
「信仰」の域に達してるような気がします。

簡単に言うと生きる上で単純に「信仰」を否定してしまうと、
イミテーションとしての「信仰」が取って代わるだけという事です。
そうやってイミテーションの人生を生きてるのが
現代日本人だと言ったらそれは言い過ぎでしょうか?(うん)

じゃあ一体模造品じゃない本物の生とはなんなのか、
本当に信じるべきは何なのか、
僕に答えられる訳がないのですが(逃走)、
そこには何らかの「真剣さ」が必要なのかなと思います。

普段真剣な人をバカにしてるのになんだ!
後半はかがみさんディスっただけじゃないか!と怒られたらシュンとなるんですけど(反省)、

まぁこのテキストをいじくって僕をバカにしてもらって
少しでも「生」と「聖」の関係に思いを馳せる人がいたらみたいなダジャレで締めます。
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けった

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