政権交代選挙は正しかったのか

社会系評論
08 /31 2009
「今回の選挙は政権交代選挙なんだ」というのがやまかしかった訳ですが、
じゃあ今までの選挙は政権交代は関係なかったのかよと言いたくなるんですが、
(政権交代が関係なかったら出来レースじゃん)
そこを第一目的にしたのはやっぱりちょっとマズかったんじゃないかと。

まずシステム的な話から入るんですが、
比例の得票数では自民と民主に議席ほどの差がないんですね。
それは前回も同じだったんですが、どうも今の制度だと振れ幅が大きく出るようですね。
小選挙区制は2大政党制を作るために採用されて、それを促進したのは事実なんですが、
いびつな形での2大政党制になってしまってるんですね。
つまり風が吹いた時に大きく片方に寄るようになっているんです。
選挙区で1対1で戦うので、そこで差が出ちゃうんですよね。

理由の一つとして立候補者の人柄で選ばなくなってるし、選べなくなってるんです。
だいたい自民対民主で選ばないといけないので
比例じゃないのに自民か民主かで投票しないといけなくなってて、
自分の所の候補者が聖人でもDQNでもあまり大差ないようになってるんです。
だから僕としては中選挙区制に戻して欲しいんです。

比例制度も問題があって、
民主党の若手なんてこいつDQNなんじゃねーかみたいなのもいる訳で、
そういう奴らがまたどんどん比例で当選してるんですね。
また民主党が比例で当選枠をゲットしたけど、
人数が足りなくて他党に議席が行きましたとかやってるんです。
つまり近畿ブロックの民主党の比例名簿に載ってたら僕でも当選できたんですね。
そんな制度で選ばれたのをちゃんと選びましたなんて
一体どの口が言ってるんだって話ですよ。

また終わった後に1票の格差がどうのとかミスで開票されなかったのがあるとか
こまごました事を相変わらずやってるんですけど、
何万票の価値があるはずの議席が制度不備で
あっち行ったりこっち行ったりしてるのには「まぁそういう事もあるよね」とか言ってるんですね。
全く物事の軽重の区別が付いてないんです。

話を戻しまして政権交代についてなんですが、
うちの小選挙区で当選した民主党の議員が良い事を言っていたんですが、
「政権交代はゴールではない。これから何をしていくかが問題なんだ」
確かにその通りというか、
僕もどうもおかしいとは思ってたものの気付くのが遅かったんですが、
政権交代が第一目的だとしたら、もう達成しちゃったんですよね。

つまり民主党の人達は
「すでに公約を達成しました!!だからみんなハッピーでしょ!!」
って言わないといけないんです。
創作作品ならこれで「めでたしめでたし」なんですけど、
幸か不幸か現実は続く訳で、life goes onなのです。

つまりこっからどうなるかが大事なんですけど、
それがほとんど話し合われてないんですよね。
無駄が問題ならどこが無駄でどうカットするのかを話さないといけなかったんですけど、
「とにかく政権交代だ」という話に集約されて、
それにみんな乗っかってそれ以上の事は話し合われなかったんです。
(まぁいつものことなんですが)

民主党は子供がいる世帯にお金を配るとか高速を無料にするとか言ってるんですけど、
財源の話になると「無駄を徹底的にカットすればなんとかなる」とか
「ハァ?」みたいな訳の分からない事を言ってるんですね。

無駄を徹底的に省くってなんなんだよって言うか、
何が無駄で何が無駄じゃないのかって話なんですけど、
そんなの簡単に言える問題じゃないはずなんですよね。

例えば完全に無駄のない行程で旅行をセットをすると、
ちょっとのイレギュラーで計画がペシャンコになるんですね。

要は電車をすべて乗り換え時間1分で乗り継いて行けば
目的地に最速で到着するとか言ってるようなもんで、
そんなの無理だからせめて15分ぐらいは
乗り換えまでの余裕を持った方がいいと言いたくなるじゃないですか。

つまりその時間は無駄と考えるのではなく余裕だと考えた方がいいぜって話なんですけど、
そんな事言ったとしても、「でも理論上は可能」とかいうのを
壊れたスピーカーのように繰り返してくるんだろうなーって感じです。

そういうあまりにも設計主義的な発想を現実に持ち込むことに呆れるしかないんですけど、
(これは実は近代主義の特徴なんですけど)
どう言ったら分かってもらえるのかなと言う意味では途方に暮れてます。

だって仮に自民党とか官僚がアホだとしても無駄が17兆も出てくる訳ないんです。
民主党がどういう計算で出してるのかは無知なので知らないんですが、
約200兆から17兆出すって言ってるんです。つまり約10分の1ですよね。
ちょっと考えて欲しいんですけど、
例えば20万給料もらってる人間が今の生活からさらに2万捻出できるかって話ですよ。
1ヶ月ならできるかもしれないですけど、1年10年と継続なんてできるはずないんですね。

他には埋蔵金使うとか言ってますけど、
今までもしもの時のために貯めてたお金を使いますって言ってるだけで、
単に貯金を取り崩しますって話なんですね。
それなら今貯金を取り崩すべきなのかどうかが問題なんですけど、
そんなこと誰も言ってないんですね。

世間のムードを見ると4年前の熱狂した変な感じはないというか、
もうやっちゃったから仕方ないというか、
こうなったら民主党に期待するしかないよね的あきらめムードを感じます。

ただこれって自分の将来の道をいろいろリストアップして
クジで引いたら悪い目が出たような話じゃないですか?
ホントは自分でクジで出た物なんて捨ててベターな方法を選べばいいのに、
「仕方ない」とか言って自分ルールに依怙地に従うような。

「自分がやる事をクジで決めよう」って自分で決めるのは果たして
自分で決めたって言えるのでしょうか?
(なんか複雑な言い回しになった)

マニフェストの話もマニフェストが一番大事というのもおかしくて、
マニフェスト通りにやるだけなら政治家要らないですよね。
マニフェスト作る人と官僚が居ればそれで事足りる訳で、
議員の存在自体が「無駄」って事になります。

マニフェストを重視している人達の短慮は
未来をほぼ予測可能なものとタカを括っている事です。
未来が予測できたら最初に決めた計画を効率的に実行する事を考えれば
それで万事オッケーです。だからマニフェスト通りやればいいと。

ただ残念なことに未来は不確定で予測せざる事態が起こります。
当初の予定を変更せざるを得ない局面が出る訳で、そこで政治家の必要性が出てきます。

つまり全く予期してなかった事態が発生して、
それに対応するのに組織と議論が必要になるんです。
議員同士で納得できたらマニフェストの計画は変更していいし、
というよりも、変更しないといけない時は変更しないといけないんですね。

計画は計画通りにするために存在するのではなく、
良い方法を採るためにあるんです。
だからよりよい方法が出来たらそっちに移らないといけないんです。

今回の選挙で小泉チルドレンとか言う泡沫の連中がほぼ死滅したのは爽快なんですけど、
結局今度は民主党のどこの馬の骨か分からない連中が当選している訳で、
これじゃ同じ事の繰り返しに過ぎないじゃないですか。

読売新聞は自民党の敗北の理由は構造改革のツケとか言ってましたけど、
あの時強力に構造改革を支持したのはマスコミであり、世論じゃないですか。
一体その4年前の反省を誰がしたんですか?
今の有権者は現在の郵政の事をどれだけ顧みたのかって事ですよ。
有権者は政治家とか官僚のせいにして全く無反省だったじゃないですか。

だいたい政治家も官僚も日本人から出るんだから、
その人達のレベルが低いんだとしたら、日本の民自体のレベルが低いって事でしょう?
別にあの人達は特権階級じゃないですからね。
「政治家は信用できない」とか言ってますけど、
政治家より有権者の方がよっぽど信用できないですよ。
ついこないだのことすら憶えてないし、また興味もないんだから。

民主党政権になってみなさんが望むとおりの
おもしろおかしいドタバタが繰り広げられると思いますが、
どうせ4年後には何も憶えてないんでしょ?
どうせ「期待に応えられなかった民主が悪い」とか言って
今回票入れた責任は一切顧みないんでしょ?

それなのに「一回ぐらいやらせてもいいじゃないか」
とか言って民主党に一票入れてるんですね。

つまんない例えですけど、
ノーコンティニューのゲームでラスボスまで到達した時に
知らない人に「一回ぐらいやらせてくれ」って言われた時に変わるのかって話ですよ。
確かにもしかしたらその人は高橋名人かもしれないですけど、
だいたいはヘタクソでゲームオーバーですよ。

なんというか自分の手に負えないような局面になると
投機的行動に出る傾向があるというか、(ヤケのヤンパチになるというか)
それでその人が被害を受けるだけならいいんですけど、日本全体が迷惑する訳ですからね。

だから「一回ぐらい」の人達がやってることは結局思考停止ですよ。

この人達にとって見たら
日本の行く末なんて「一回ぐらいやらせてもいい」レベルなんでしょうね。
なんでも「一回ぐらいやらせてもいい」なら
原爆だって一回ぐらい投下してもいいじゃないですか。
広島も長崎も文句言うなよ、「一回ぐらい」落とされた程度で。
でもそんなこと言ったらみんな怒るでしょ?

基本的に起こる事って言うのは取り返しが付かないんですけど、
それを「運命」とか言ってしまうと「これは既に決まっていた」として
なんでダメになったのかを考えないんですよね。
未来が「既に決まっている」なら
今の自分達が何をしても変わらないという話になっちゃうんですよね。

でも避けられるミスは避ける努力をしないといけない訳で、
だからこそ真面目に考えないといけないんですけど、
自分の手に負えないと思うと逃げてしまうんですよね。

要は「一回やらせた」結果永久にダメになってしまう事もあるんです。
だからここも物事の軽重を考えないといけないんです。
任せるとしたら誰に任せるのか、任せていい事なのかどうかを考えないといけないんです。

僕たちにもう助かる道なんてないんでしょうけど
(断定すると思考停止なので断定はしない)、とりあえずやらないといけない事は
これから起こる事は全部自分達が決めた結果での出来事なんだと自覚することです。
この先民主党がやらかすであろう大失態は民意です。
だから僕も反省しながら生きるからお前らもちょっとは反省しろよな。
(いつものようにエラそうに終わる)
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萌えとは便利なケチャップである~精神の味覚障害者に成りはてたオタク~

社会系評論
08 /13 2009
萌えについての本質的な事は難しくて分からないので、表面的な話に終始します。
最近の創作作品を料理だとすると、
萌えはメインとして扱うというよりは副次的なものだと一応捉えられます。
要は料理にかけるケチャップのようなものです。

ただのケチャップであれば使われる用途は制限されます。
要はオムライスにかけたり、チキンナゲットに付けたりという普通の使い方です。

ここに「便利」という言葉を加えるのがちょっとミソなんですが(ケチャップなのにミソ!)、
通常より便利なケチャップは何の料理にでも使えてなんでもおいしく食べられます。
つまりおいしくない料理でもおいしく頂けるという意味で
便利なケチャップは画期的な部分があります。

だから素晴らしいなんて話にする訳が当然なく、
魔法のケチャップが登場したら起こる事象は、

・料理の質の低下
・料理の方向性の画一化
・味の均一化
・受け手の受容体の画一化(味覚障害)

どすえ。(なぜか京風)

いくら便利と言ってもケチャップ味である事には変わりはないので、
どんな物でもケチャップ味になります。(味の均一化)

そうなると、全部ケチャップ味なのでまず料理の中身はなんでもよくなります。
逆に、料理の質に資本を投下するのはムダであるというのが一般的意見になり、
料理自体への予算は削られて、
人の料理の質自体の向上に対するモチベーションは低下するでしょう。(料理の質の低下)

また、ケチャップを活かす料理中心になり、
ケチャップ味にそぐわないものは自然と作られなくなります。(料理の画一化)

作り手の問題だけでなく、受け手もケチャップ味に慣らされる訳で、
ケチャップがかかっていない料理を目にした時に、
かかっていない事に対する不満や違和感を抱く事になります。
またケチャップに慣らされる事で微妙な味の変化が分からなくなります。(味覚障害)

こういった時にどんな意見が出るかというと、
隠し味としてタバスコをかけるべきではないかという意見が起こります。
それ自体は正しいのです。が、
タバスコをかけるという行為は「ケチャップ」ありきの話です。
これはケチャップをどう活かすかと言う意見であり、
ケチャップ味に疑問を呈する訳ではありません。
ケチャップの多寡やタバスコの多寡でワイワイ言っているのが今の状態です。

ケチャップ自体を否定する訳ではないんですけど、
たまにはケチャップがたっぷりかかった体に悪そうな料理を食べたいなと僕も思いますが、
何にでもかけてたら作り手も受け手も麻痺すること間違いなしです。

こういった今の萌えブームの状態ですが、
いくら便利なケチャップといえどもケチャップである以上、どこかで飽きられます。
ですので、最終的にはこういった便利なケチャップブームは終わりを告げる事になります。

便利なケチャップブームが終わったら、素材を大切にするようになるかというと、
次に新しく来るのは便利なマヨネーズブームであり、便利なソースブームです。
何故かというと受け手が味覚障害に陥っている以上、
塩やコショウだけの素材を活かした料理なんておいしくいただけないからです。
受け手はより刺激があって、より興奮できる味を求めます。
作り手もそれならファストフードの方が儲かるので安上がりな作りになります。
また作り手は裏返せば受け手である場合が多いので、
なかなか方向を変えるのは難しくなります。

こうやって分かりやすい味で延々とルーティンさせていって、
味覚障害者とグロテスクな料理を量産するのがサブカルの構造なのです(誇大妄想)。

まぁ邪悪過ぎる話になったんですけど、
これはマックのクォーターパウンダーを食べた時に
「うーん、たしかに前のよりおいしいかもしれないけど、
ケチャップがかかってたら結局同じやんけ」と思った時に思いついた話なので、
どう捉えるかはおまかせします。

リアルの味覚障害なら亜鉛を摂れば治るケースもありますが、
今回の例え話ではガマンしてケチャップを少しずつ減らし続けるしかありません。

ただそんな根気がないのがオタクなので、
オタクは死んでも治らないのかもしれませんね☆(オチ)

母性とは無条件なものなのか

社会系評論
07 /10 2009
師匠が修さんの質問で困ってるから助けるフリをしてもっと困らせようと思います
(いつものカンジね!)。
エヴァに関しては今モチベが下がってるんで、上がったらまたやる・・・かもしれません。

質問の意図とは違うのかもですが、母の愛が無条件なのか否か。
少し細かい話になるのですが、
例えば兄弟がいる場合母の愛は等しく均等に兄弟に降り注がれるのでしょうか。
答えありきで申し訳ないんですけど、
そんな事はなくて母親も人間なので苦手な子供と接しやすい子供がいるはずです。

簡単に言うと母の愛は不均等です。
もっと言うと時間も有限なので、構っていられる時間も限界があります。
まぁ母性があっても愛されない子供もいると言う事です。

他の話をすると、世に言われる教育ママ達は一体誰のために
子供をいい学校へ行かそうとしているのでしょうか?
「子供のため」それも事実だと思います。
一般にいい学校に行けば有名な企業に入れ、食いぶちの心配はなくなるでしょう。
ただ、それだけなのでしょうか?

これも答えありきで申し訳ないんですけど、
僕が思うに往々にして母親の虚栄心を満たすために子供は利用されます。
母親同士の競争のために利用される場合があるのです。
つまり、母親の「自分の人生への復讐」の側面は否定できないのではないでしょうか。

子供は親の玩具になる側面があると言わざるを得ません。
体だけ大人になった子供が子供を産むとこの要素が高まります。
そしてそれがかつてない程に高まっているのが現代です。
小さければ小さいほど子供は親を拒否できません。
名前も、食べ物も、遊び道具もすべて子供から見れば「与えられる」物です。

そんな要素を一切無視して少子化だからとにかく子供が生まれればいいとか言ってるのが
一般的に偉いって言われてる人達なんですけど、なんていえばいいんですかね、
お前らが死んだら計算の分母が減るから死ねよとでもとりあえず言っておきます。
(多少ダーク)

話がずれたので戻すと、
そもそも母性は誰にでもある物なのでしょうか。
虐待され亡くなる子供の母親は皆等しく異常者なのでしょうか。
というより、母性がない女性はおかしいのでしょうか。
「自分の子供を愛せない」という悩みを新聞に投書する母親はおかしいのでしょうか。
逆にどうして父性のない父親は母親に較べて批判されないのでしょうか?
父親が自分のお腹を痛めて生んだものではないから、
子供を自分の子供だと思えないという話がありますが、
自分の子供だと思えなかったら育児に関わらなくても責任はないのでしょうか。

結局ですね、母性というフレーズで育児の責任を
母親に過度に押しつけてるのが今の状況です。
育児放棄があると、母親の方に
「お前には母性がないのか」なんていう心ないセリフが容易に吐かれます。
別に育児した事ないので想像なんですけど、
思うに、例えば一日中何の理由もなく子供に泣かれたらイライラするのが普通です。
眠りたいのに夜泣きで泣かれたら疲れるに決まってるじゃないですか。
それを「子供はかわいいから育児は楽しい」とか言ってごまかしてやらせるから
おかしい事になるんじゃないですか。
父親が助けてくれなかったりしたら尚更ですよ。
昔ならおじいちゃん、おばあちゃんがいましたけど、今は近くにいないんですよ。
育児はツラい事だらけで、イライラした時は子供が嫌いになっても普通じゃないですか。

で、仮に母親の愛が無条件だとすると、僕たちはどんな存在でも愛されることになります。
そうなると母親に愛される事と、僕たちの努力や気遣いは相関がなくなる事になります。
難しく言っただけなんですけど、「おかあさん毎日ありがとう」って言ってくる子供と
「クソババア死ね」って言ってくる子供を
どうして同じように「無条件に」愛さないといけないのでしょうか。

母親が育児をする必要があるのは自分が生んだ責任があるからです。
(もちろん父親にもあります)
人間は自分の意志で生まれてくるのではなく、常に生まれさせられる存在です。
親は子供に責任能力が芽生えるまで育児をしなければなりません。
これは社会的にも強要されている部分です(師匠も似たような事言ってたでしょ?)

言いたい事は「自分の子供は無条件でかわいい」と言うのは欺瞞です。
母親は母性によってというよりも、
子供を好きになるように努力して、そうして僕たちは育てられてきたんですよ。
それを「無条件(母性)」と言ってしまうと、
母親に育てる力が初めから備わってたから子供が育ったんだって話になってしまいます。
確かにそういう部分もあるんですけど、
母親の努力がなかったら僕たちは今ここにいないのです。
そしてその努力をなおざりにする発言には異議を唱えざるを得ません。

個人的に振り返ると両親とも殺してやろうかと思うようなシーンもあったんですけど、
憎々しげにでも「育ててくれてありがとうございました」と言わざるを得ないのかなと。
今生きてなかったら何かを感じたり考える事もできなかったんですから。

こんな所に書いてないで電話でもしてやれ的ムードになったんですが、
母の愛も有条件なんです(他の関係に較べたら条件は少ないですが)。
そして、それを受ける僕たちも有条件で受けるのです。
つまりお互いの関係はお互いの努力で成り立っているはずです。

有条件的とは「理由がある」ということで、
自助努力の介入する余地があるということです。
つまり僕たちの行動により、好かれたり嫌われたりすると言う事です。
もちろん相手が好きになるか嫌いになるかは向こうの判断ですから、
相手のその判断は自分にとって不公平に感じますが、
僕たちは干渉(もしくは交渉)する事が出来ます。
そこで合意が形成された時に関係が成り立ちます。

合意がない関係は往々にして従属になり、隷属になります。
付き合ってる相手に何も言えず、
向こうの言うがままじゃないと維持できない関係は果たして対等な関係なのでしょうか。

要は条件が付かない関係こそ不均等でおかしいんです。
個人の主体性の関与する余地がない状態(努力しようがない状態)は
そもそも自分ではどうしようもないので議論のしようがありません。
確かに好悪なんてフィーリングなんですけど、
無条件に愛されると、自分じゃないといけない理由がDNAレベルでしかなくなります。
それは自分がいない事と同じです。

つまり向こうが有条件で付き合ってくるのは人間関係上当然なんです。
経済的な意味ではなく精神的なものでもペイしてリターンがなかったら
その状態はいつか終わります。人間は不公平な交換を続けないように出来ています。

まさか向こうには無条件の自分への愛を望むけど、
自分はいろいろ条件提示するよなんていう不平等な関係を「愛」とか言いませんよね?

愛と言うと大仰ですので信頼とでも言ってごまかしますが、
何もしてないのに無条件に信頼される事と、本人の行動の結果勝ち取る信頼と、
一体どちらが僕たちにとって大切で必要なのでしょうか。

答えっぽいのを提示すると僕としては後者が大切だと思うのですが、
前者の経験がないとまず人に与えることができないという
エヴァの登場人物的苦しみを味わう可能性が高まり、
前者の経験が過多でも人に与える必要を感じないという
甘えた坊ちゃんになる可能性が高まります。

要は自分に与えられてきた前者の経験がなんであれ、それを乗り越えて
人に与える事で信頼を得る必要があるんじゃないでしょうか。
ただ感覚としてはそれは容易ではない事だなぁ~とは思ってるんですけど。

うーん、修さん読むかな~、師匠の言う事が全部正しいと思うよ(逃げた)。

脳死とは人の死なのか

社会系評論
06 /24 2009
臓器移植法改正案が衆議院で成立した今日この頃、
やはりこのテーマについて考えなければ
この国の国民とは言えないのではないでしょうか?(やや大げさ)

まぁもうニュースで知ってると思うんですけど、
A~D案まであって、A案が可決されたんですけど、今までと違う点は

・脳死を一律に人の死とする
・15歳未満の移植を可能にする
・本人の拒否がなかったら家族の同意で移植可能

ですかね。多分細かく見るともっと違うんでしょうけど。

情けない話で共産党以外の党は自由投票になったんですね。
つまり、党としてまとめる事を放棄したって事なんですけど、
それだけ難しいテーマだと言う事ではあります。

背景としては海外渡航して移植を受ける事が難しくなった事が挙げられるようです。
まぁ新聞情報なんですけど、
国際移植学会が自国の希望者は自国で解決するように促したんですね。
知らなかったんですけど、
米国に移植希望で来る外国人のほとんどが日本人で、批判の対象になっていたんです。
つまり、日本から行くと、それだけアメリカで必要としてる人に供給されなくなるという
普通の事実なんですけど、要はお金で他国民の臓器を買ってたんです。
そしてそれが嫌がられるようになって(元から嫌がられてたんでしょうけど)、
最近では法外な金額で逆に断念させようとさせられてる状態らしいです。

とりあえず事実としては条件付きで命はお金で買えるんですよね。
でもそれを殊更騒ぎ立てたい訳じゃないんです。
そんなのは資本主義になってからの当然の事実で、
というよりも昔も為政者はその当時の最高の治療を受けてた訳ですし、
当たり前ですけど平等じゃないんです。
もっと言うと普通に生まれてくるか、病気を持って生まれてくるかも違う訳だし、
生まれながらに不平等なんです。

ただですね、日本の子供の命を救うっていうヒューマニズムが
他国民に迷惑をかけていたのは日本人として反省しないといけないんですよ。
移植が必要な方(だった方)と関係者の気持ちを全く忖度してないのは認めるんですけど、
命を助けようの美名の元に犠牲になった人がいたと思うんです。

そこでですね、僕は日本の法律で海外渡航による臓器移植は禁止にすべきだと思います。

世界的な流れでそうなってるから、そうしなくてもそうなるんでしょうけど、
海外渡航は裏ルートなんですけど、それしか助かる道がないから
当然生きたいし救いたいから家族は頑張らざるを得ない訳で、
また頑張らなかったら家族はあとで死ぬほど後悔するじゃないですか。
だから人生を投げ出して募金活動とかしないといけない状態なんですよ。
それをまず絶って、国が恨まれ役になるしかないんじゃないかなと。
今だと関係者側の負担が大きすぎるんで、残酷ですが
どこかで「あきらめさせる」システムが必要になるのかなと。

その上で、国内の移植をどうするか。

そもそも臓器提供が可能になったのは、医学の進歩が挙げられます。
医学の進歩によって、それまでなら助からなかった人が助かるようになりました。

僕は「今までなら死んでいた人が生きているようになる」のが医療の進歩だとしたら、
脳死者もこれに当てはまると思うんですよ。
呼吸器があれば生きていられるのなら、生きているじゃないですか。
医療の進歩が脳死者を生み出したんです。

つまり脳死は人の死ではないと僕は思います。
順番的に言うと臓器移植が行われるようになってから
脳死の問題が発生したみたいなんですね。
あまり僕を信用はして欲しくないんですが、そもそも脳死判定が生み出されたのが、
臓器移植するための話だというのが正確みたいです。

そもそも論理的に考えて臓器は生きているから提供できる訳で、
基本的に臓器移植は生者から生者への提供なんですよ。
死者から生者への移植というのはまやかしで、
実際延命治療を本気でされた患者の臓器はほとんど使い物にならないらしいんですね。

人命が大切だとしたら移植される側の人命も
移植する側の人命も等しく大切にしないと行けない訳で、
まず移植する側の治療がきちんとされないといけないと言う事です。

移植はその後の話なんですけど、
前述したようにきちんと最後までベストを尽くすと臓器移植はほぼ不可能です。
ですので、ここにおいて移植を可能にするには、移植する側の意志が問題になってきます。

つまり、「ほとんど死んだ」状態になった場合、
「延命をあきらめて」「他者に臓器を移植する」という考えで移植をすると言う事です。

青臭く言えば、生者から生者への意志の繋がったバトンであるから
臓器移植にギリギリ人間らしさが保たれるとした方がいいんじゃないでしょうか。
つまりですね、ほとんど死んだ時はまだ生きられる可能性が高い人に後を託すという事で、
それが成立しなかったらどこまでも人間の商品化、部品化は止まりません。
もちろん人間はすべてのものを商品化してきたので、
人間の商品化のすべてを否定するような野暮なマネは避けたいんですが、
今の状態だと不均衡が拡がるだけです。

アメリカは年間5000例臓器移植が行われているんですが、
その一方で国民皆保険がないので、貧乏で盲腸の手術も受けられない人もいるんですね。
つまり日本じゃ考えられないほど医療に対する不均衡があると言う事です。
なんでもそうなんですけど、不平等すぎると社会的紐帯が崩壊します。
ですので、社会としてどうするのが安定するのかという視点で考えないといけないと
僕は思うんです。

で、意志の問題に戻るのですが、
子供の定義が15歳という年齢が区切りとしていいかどうかは法学者に任せるとして、
ここで考えておきたいのは、子供に意志決定能力があるのかどうかと言う事です。
僕としては全くないとは言わないですが、
大人と較べると相対的にないと言わざるを得ないとします。
簡単に言って大人の臓器提供よりも子供は慎重でなければならないという事です。
そうでなければ子供は社会的弱者なので、臓器を搾取される可能性が高まります。
児童ポルノが厳しくなっている論理と同じで、
子供は保護する対象で守られなければならないということです。

子供の臓器提供に関しては日本の方が世界よりも正しい気がします。
医療のレベルに対して移植数が少ないと言う意見は妙で、
医療のレベルが高いから延命措置を取れる訳で、
そして延命したら臓器提供できないっていう話も成り立つじゃないですか。
だいたい生命の話なんだからキリスト教的倫理観を持つ国家と較べて
多いか少ないかなんて話をするのがおかしいんですよ。

ここで個人的な話をすると、僕が脳死になったら死んだと判断してもらって構わないです。
結局ですね、僕自身は思考できない状態もしくは
他者と思考を通わせる事ができない状態になったら
体が生きてても死んだと判断してもらいたいんですよ。

ただですね、身近な人が脳死状態になったら
さっさと臓器移植するかと言ったらそれは疑問というかしないですね。
そんな重大な決断をおいそれとできるのか。

つまりこれは死を個人的なものと捉えると
僕の意志が最優先で僕が脳死になると自動的に臓器提供されるのですが、
有り体に言って死とはコミュニティのものなんですね。
僕の死は身内の物であり、友人の物であり、所属組織の物であり、日本の物であるのです。
(もちろん濃淡はありますよ)

ですので、関係者の合意が必要になるんです。
僕の臓器が取られていく事で家族がその後後悔したらダメなんです。
僕は「ほとんど死んだ」時に、
自分から死を選ぶことをあらかじめ身近な人に納得してもらわないといけないんです。

なので、そう言った話し合いの場が事前に必要なんですけど、
そんなこと僕も全然してないですし、今の日本にそういった場もないですし、
死とは何かについてもうちょっと話し合う気がないと
臓器提供なんてそもそも無理だと思うんですよ。

だいたい一方の家族が悲嘆に暮れて、一方の家族が歓喜に震えるという構造自体が
酷く不均衡な訳で、お互いの家族がある程度心を通わせられて納得できる関係じゃないと、
いろいろ問題が起きてくると思います。

だから死について考えないといけないのにですね、
今回の法律の「一律に」死と判断するという文言はふざけてて、
結局「死とは何か」を考える事は放棄しますって言ってるも同然なんですね。

いちいち怒っても仕方ないというか、別に当事者じゃないので怒りようがないんですけど、
今回は法律で決めたんですけど、制定法が生きるためには慣習法がないとダメなんですよ。
というよりも、「良識」が生きていたら多少法がザルでも何の問題も無い訳で、
逆に良識がない社会だったら臓器移植なんて悪い事し放題なんですよ。

人命尊重の観点から問題になっている臓器移植なんですが、
でも不思議な気がするんですよね。
毎年交通事故で年間6000人死んで、3万人自殺してるんですよね。

生活の便利さのためなら多少の犠牲はやむを得ないって暗黙的に認めてるし、
過労死とかメンタルがおかしくなるまで働かせるシステムも稼働してる中で、
なんで人の命に軽々しく尊厳とか言えるんですかね?

脱線しますけど、
こんにゃくゼリーで喉を詰まらせて死んだ人が出て製造中止になった時があって、
ネットで販売再開運動が盛り上がった時に凄いイヤーな気持ちになったんですよ。
確かに喉を詰まらせて死人が出たら製造中止にしないといけないなら
餅とかもっと危ないのがあるんですけど、それにしたってですね、
こんにゃくゼリーがないと死ぬって人はいない訳じゃないですか。
そんなにお前らこんにゃくゼリー毎日食べてないだろって。
そんなにこんにゃくゼリーに執心してなかっただろって。

「他人の死よりも自分がおいしくこんにゃくゼリーを食べる事が大事」なのは
事実なんでしょうけど、そんな事実あからさまにしちゃいけないと思うんですよ。
逆に言えば他人からしたら自分の命がこんにゃくゼリー以下だって認めてるようなもんで、
命が地球より重いなんてウソなんですけど、
こんにゃくゼリーよりは軽くないと思うというか思いたいんですよ。

とどのつまり僕としては人命の尊さとかいう下らないヒューマニズムにも
機械的に臓器提供して人命救助するしょうもない現実主義にも与したくないんですよね。

難しい話だったので、これが解答だとは思ってないですし、
僕の意見だと臓器移植で助かる人と特に子供には残酷なことを言っているので、
自分でもまとまらない部分があります。
でもまぁ考えるしかないかなと思うし、みなさんも考えていただければって事です。

最後になりますが、
現代はおおまかに自分がどのような状態になったら死んだと言う事なのかを
はっきりとかつ細かく言明しておかないと、
自分で死ぬ事すらできない厄介な時代だと言う事なんじゃないでしょうか。

そう考えると医学の進歩は複雑な宿題を残してくれた訳で、
素直に言祝ぐことが僕にはできないんですけど、みなさんはどうなんですかね?

とでも呟いて終わりにしたいと思います。

物語の終わりと人生の終わり

社会系評論
06 /14 2009
タイトルに深い意味はなく、予断と偏見で書きます。(いつものこと)
物語にはいつか終わりが訪れます。
これに反論する人は・・・か、僕が嫌いな人でしょう。

ループ物は終わらないじゃないかって?いえいえ、そんなこたぁ、ござんせん。
言ってみれば物語がドーナツのようにぐるぐる回っていても、
僕たちは外部からドーナツを観測することができると言う事です。
つまり終わらなかったという終わりであり、一応オチはついていると言う事です。

ジャンプの打ち切り作品は総じてファンから見たら納得できない終わり方だと思いますが、
かと言って長ければいいという訳でもなさそうです。

ジャンプで言うとネウロが22(23?)巻で終わりました。
世間的に言うと、綺麗に終わって良かったねみたいな意見が多かったみたいです。

アイシールドがそろそろ終わるみたいですが、
あそこで終わっとけば良かったのにね的扱いを受けそうです。

読者としては好きな作品は終わって欲しくないんですが、
かと言ってどんどんつまらなくなって尻すぼみで終わるのはイヤだという
気持ちもある訳で、どこかでちゃんと終わって欲しいという欲求があるはずです。

最近のマンガ作品は長期化している傾向があります。
作品が長期化して言っている理由としては商業主義と作家の都合の二点ですかね。

商業側は散々言われてると思うので、
今回は作家側を妄想しながらつっこんでいこうかと思います。
作者側も軌道に乗った後、既存の作品でやりたい事がふくらんでいる内は
続けたいし(ワンピとかブリーチとか)、
逆に新しい作品をやる事を放擲してる作家の人もいます(こち亀とか)。
それ以外にも、続けている内にもうどうまとめていいか
分からなくなったのもありそうです。

作家としても物語が終わると言う事は、キャラにお別れをしないといけないと言う事です。
週刊連載で言うとストーリーものよりキャラで引っ張る方がおそらく多くなるでしょう。
(週刊連載で整合性のある話を作るのは困難なため)
もちろんストーリーとキャラを完全に峻別することなんてできないですが。

新しいキャラが皆に受けられるかどうかは未知であり、
なおかつ自分の今までのキャラを越える魅力を出せるかどうかも分かりません。
(和月先生もガンブレイズ~で失敗してるし)

儲かるからいいやって編集側と、
新しいキャラ作れないかも知れないという不安があるので
今のままでという作家側の悪い意味で保守的な態度が合致した時に
延々と話は続くのかも知れません(偏見で言うと犬夜叉とか)

ストーリーを綺麗に整備するとキャラの掘り下げをあきらめないといけない所もあったり、
その辺りを総合的に判断しながら作者は作品を作っているのではと思います。

この話を持ち出したのには前提がありまして、
年齢と作品の完成度にある種の相関があるのではという少々残酷な仮定です。
つまり、作者の年齢が高くなっていって成熟期を過ぎると、
物語をまとめる力が落ちてきます。(もちろんバラツキはありますけどね)
細かくは言えないんですけど、キャラであり、世界観であり、起承転結であり、
整合性であり、それらが少しずつトータルに落ちていきます。

完全に妄想なんですけど、冨樫先生は今かなりネーム作りで
苦労してるんじゃないかと思うんですよね。
僕には遊んでるようには感じられないというか、
一般的に子供が生まれたら多分仕事頑張ろうって思うじゃないですか。
それなのに時間をおかざるを得ないのは、
満足できる話を作れなくなってきてるからなんじゃないかと。
今までレベルの高い話を作ってきた分、
妥協はできないので結局時間をかけるしかないという。

結局、作品を終わらせる権限が作家にある場合、
作家が満足できなかったり潜在的に不安だったり力が落ちたりすると話が長くなります。
そして、今はそれが許される環境なので続いていきます。

こうなっていくとですね、先に作者の方が終わりを迎える場合があります。
栗本薫先生の死とグインサーガの未完は最近のニュースです。

グインサーガは読んだ事ないんですけど、
おそらく魅力的なキャラだったり、ストーリーがある物語なんだと思います。

だけど、グインサーガが大好きな人でもさすがに全く知らない人に全部読んでみてって
オススメ出来ないと思うんですよね。
「これ凄い面白いけど、130巻続いて最後は未完だよ」って言われたら
手を出しにくいってレベルじゃねーぞ!じゃないですか。

物語は読まれないとその価値を失います。
言わば社会的に死ぬと言う事です。
このままだとグインサーガを愛している人が少しずつ減っていって
ゼロになった時に忘れ去られます。

グインサーガは栗本先生の死によって「未完」という不老不死になりおおせました。
しかしそれは社会的に言えば「死」と等価であり、幸せな状態だとは言えません。

たとえグインサーガを誰かが引き継いで上手に終わらせたとしても、
それはもう栗本薫のグインサーガじゃないんですよね。
普通の話を延々として恐縮なんですけど、
文体とかタッチとかあとがきとか、文章にはその人そのものが映し出されるので、
どんなに真似てもそれは偽物で、グインサーガは栗本先生にしか書けないんです
(拙さなどのネガティブな物も含めて)。

栗本先生はなんとか完結しないといけないと思ってたみたいなんですけど、
申し訳ないんですけど、おそらくもう遅すぎたんです。
ちょっと調べただけですけど、前々から体調は芳しくなかったようなので、
それも見越して終わらせないといけなかったんです。
ただもうまとめないといけない時には加齢と病魔で栗本先生の能力と気力が
作品よりも落ちてたんですね。
だからおそらくもっと時間があっても
読者の納得のいく終わりを迎える事はできなかった・・・のかもしれません。

つまりですね、物語は終わる事で完成します。
完成する事で読まれる可能性がなんとか保たれます。
死ぬ事で生き返るんですね。(いつものレトリックですが)

青臭い事を言うと、古典はいつでも時代ごとの人の心に残るから生きているのであり、
何百年前に完結してるから死んでると言う事ではないのです。

まぁ言い訳なんですけど僕がこち亀を批判するのは
秋本先生が自分で晩節を汚してるからなんですよ。
こち亀が愛されてるから続けないと行けないんじゃなくて、
こち亀が愛されてるうちに終わらせないといけないんです。

つまり正しく古くならないと古典になれず、将来の人が読まなくなります。
ただでさえ過去の作品は読まないんですけど、なおさら読まなくなります。
そうなると、今の読んでる人がいなくなったら作品として死ぬ事になります。

だからワンピースとかちょっと不安なんですよ。
尾田先生にはもちろんグランドデザインが見えてるんでしょうけど、
10年後に今の力があるかどうかはまた別問題な訳で。

違う世界ですけど、小室さんもつんくも全盛期には自分が曲が作れなくなるなんて
思っても見なかったはずで、創作作品の枯渇って言うのは恐ろしいと思います。
(逆に言うと出し尽くしたって言うのは幸せなのかもしれない)
また、創作者って多分湯水のようにアイデアが思いついてる時は
まさか自分が枯れるはずがないって思うんですよね。
その辺も死と似てると言えば似てるんですけど・・・

アニメになると、もう少し話は複雑で、
作者に加えて制作会社とか声優とかいろいろな
要素が加わって作品になります。
例えばですね、ルパンの初代の声優山田康雄さんは亡くなって、
今はモノマネしてた栗貫が当ててるんですけど、それは結局モノマネなんですね。
(これに関しては栗貫も認めてるし、辞めたがってるらしい)

だいたい山田ルパンはアドリブ全開でああなった訳で、
新しい事ができない栗貫ルパンが初代を越える事はできないし、
また新しい事をしてもそれはもうルパンなのかなって思うんですよ。
要はキーパーソンがいなくなった時点で作品の身の振り方を考えないと
いけないんじゃないかなと。
普通に考えてルパンが山田康雄が声当ててる時より面白くなる訳無いじゃないですか。
毎年夏に新作やってますけど、
このままやっててもルパンってつまんねーなって
若い人達に思われて終わりなのがなんか残念なんですよ。

わがままなんですけど、物語には作る事で価値が落ちるのが
はっきりしだしたら終わって欲しいんですよ。
死なないと行けない作品がゾンビみたいに生きてるから、
「殺せ!」って声が喧しくなって世の中が殺伐としていくんですよ(飛躍しすぎ)。

作り手の人には自分の作品とつかず離れずというか、親バカになっていつまでも
チヤホヤしたり、逆に虐待して殺しちゃったりとか自分のためだけに利用とかせずに、
独り立ちさせてあげて欲しいという完全に僕のお願いなのです。

拝金主義とか言う防腐剤で作品のゾンビ化が可能になった今、
作家側の判断が重要になる場合が前より増えるんじゃないでしょうか。
上手くいかなかった時、作品群は死ぬ事もできないでさまようしかないんでしょうか?

あぁ人生に触れるの忘れてた。つまり死ぬべき時に死んだ方がいいよってことです。

・・・そんなつまんねーオチかよ死ね!ってみんなが思った所で今回は終わりです。

(このテキストはここで死にました。無駄死です)

ツンデレとは心電図である

社会系評論
06 /03 2009
えー、嘘です。
ツンデレという現象を考えるに、

①ツンからデレへの長期的(かつ固定的)変化
②ツンからデレへの短期的(かつ流動的)変化
の二つから考えていかないといけません。

①は普通の恋愛と同じです。最初は仲良くないけど、
徐々に仲良くなって最後はキャッキャウフフになる状況を想定してください。
とりあえず①は後からで、②を先にします。

②はツンがデフォルトで、時折デレを見せるというパターンです。
今、主にツンデレと言われているのはこちらです。
ツンの状態を直線とします。
そしてデレを山なりの変化とすると、
ツンーデレッ、ツンーデレッ、ツンーデレッという心電図のような図になります。
ツンからデレに移り変わる瞬間をツンデレ行為と呼び、
それを繰り返すキャラをツンデレキャラと呼びます。

このモデルを出すとツンデレキャラを作るのに決めないと行けない事は、

・ツンの高さをどこに置くか
・デレの高さをどこに置くか
・ツンの長さをどうするか
・デレの長さをどうするか

になります。

おそらくツンもデレも下限値、上限値があるので、
(ツンなら最低でも認識してもらうレベル、デレならイチャイチャレベル)
その枠内での話になるのですが、
ツンが低すぎるとデレた時に不自然になる場合があります。
かといって、デレの値を下げすぎてバランスを取るとカタルシスが低下します。

めんどくさいので端折ると、ツンとデレの落差には適正値があり
(個人差はあるでしょうけど)それは時間経過でもあまり変わらないと思います。

長さも同様で、延々とツンなのは単に嫌われてるだけですし、
しょっちゅうデレられてもありがたみが減少します。
ツンデレはツンベースなのでデレの長さは瞬間的になります(故に心電図)。
以上が①のツンデレの話です。

①でツンデレは完結してるんじゃないかと言う意見があるかもしれませんが、
②が必要になります。なぜならツンにはリアルツンの状態と
潜在的デレの状態の二パターンが考えられるからです。
というよりも今ツンデレと呼ばれてるのは現象の話メインで
潜在的な話は置いていかれがちです。

リアルツンはデレが起こらない状態です。
初対面でいきなりデレたりする人はいないので、だいたいこの状態から始まります。
ここから時間経過でなにかしかの関係性の変化が(潜在的に)起こるんですが、
それを表面化しない状態が潜在的デレのツンです。

この状態のツンになると、何かの拍子でデレが起こります。
つまり最初のデレの高さはそれほど高くありません。
デレの高さは関係性が上手くいけば徐々に高くなっていきます。
同時に、ツンの直線も底上げされます(仲良くなるので)。

普通に考えて、デレが起きると言う事は向こう側に好意があるということです。
典型的な例で考えると、親切な行為→言い訳のパターンがありますが、
親切な行為がデレそのもので言い訳はそれをこちら側に確信させる行為に当たります。

もう一つ②を持ち出してきたのは、仮に心電図のようにツンデレの高さと長さに延々と
何の変化もなかったら人はその人とのツンデレに飽きてしまいます。
加えて時間や労力を使っただけの対価が人間関係で得られないと
どこかで相手との交流なりコンタクトを諦めるのが普通です。

つまり心電図と言ったのは本当に嘘で、
ツンの低い直線からデレへジグザグしながら全体的に山なりに上がっていって
デレで高い直線になるのが上手くいった場合の正常なパターンです。

良いツンデレはこのツンからデレへの長期的変化のただ中にあります。
要は相手との関係が上手くいっても失敗してもいつかなくなってしまうものなのです。
故に価値があるのです。

結局ツンデレは恋してる時が一番楽しいよねっていう普通の話に落ち着く訳です。

と、なぜか恋愛ベースで考えたんですけど、それなら同性のツンデレはどうするの?
とか単に相手に対するアンビバレントな感情を面白がってるだけなんじゃないかとか
いろいろ疑問がわいたんですけど、それはまた考えてみたいと思います。
(そう言って続きをやった試しはないんだなこれが)

北方領土に関する小考

社会系評論
05 /17 2009
今日は昨今の「けいおん!」ブームに全く乗っからず北方領土の話をしたいと思います。
なお、あまり細かく調べた上の発言ではないですが
僕はおおむね正しいと勝手に思ってますので、
文句がある人はジャンプ感想事務局に連絡して下さい。(存在すれば)
(これからの文はぜんぶ語尾に~っぽいと付けて読むと
僕のニュアンスがよく伝わるかも!(やまなしさん風))

まだ居るのかいないのか知らないですけど、プーチン首相が来日して、
多分色々話し合われました。
その中に北方領土の話があったんですが、
いつものように取り立てて進展はなかったようです。

四島返還が日本の基本線なんですけど、ロシアは一時は一つも返さないって言ってて、
今は日ソ共同宣言に立ち戻って二島返還で考えていきたいらしいです。

僕としてはですね、プーチンがトップにいる時に交渉するのはタフで得策じゃないのかなと
漠然と思ってたんですけど、プーチンぐらい強引に国内を束ねてくれないと
交渉すらできないというのが正確みたいですね。
要はロシアの世論としては一つも返す気はない、もしくはまとまりようがないという事です。

そもそもなんでこんな事になったのかと言うと、
日ソ中立条約というのが戦時中に結ばれたんですけど、
それをソ連が破って侵攻してきていろいろ占領して、
その後の取り決めで返した部分もあったんですけど、
帰ってこなかった部分が北方領土という感じです。

これが火事場泥棒であることは間違いないんですけど、
少し細かい話をすると、日本側の人が北方領土の話をする時に言うのが、
「ソ連は日ソ中立条約に違反した」「北方領土は日本固有の領土」という二点です。

一点目の意見は事実なんですけど、
じゃあ日ソ中立条約に違反してなかったら、
そもそも条約が存在しなかったら占領して良かったのかよって言う話が残ります。
つまり、「二国間の約束を破った」のが悪いって話しかしないんですけど、
そうじゃなくて「他国の領土に侵攻して占領するのは世界的に見てしてはいけない」
という点が見過ごしにされているような気がします。

領土は生活の基盤なんで、当然守られないと国民の生活が成り立たないです。
それはどこの国でも一緒で、自分の国の場所を守って確定するというのは
同時に他の国の場所を認めるという事になります。
逆に領土侵攻を認めるとその国だけじゃなく世界の基盤が揺らぎます。
(覇権的行動を促す結果になるので)
要は領土侵攻は世界のために認めてはいけないはずなんです。

この問題で日本が折れてはいけないポイントは、
「当時のソ連の行動が侵攻だったことをロシアに認めさせる」この一点に付きます。

ロシアが自分達が悪かったとか思ってるかと言ったらかなり怪しいですよね。
戦争に負けた悪い国だから取ってもいいだろぐらいに思ってるような気がするんですよ
(あくまで推測)。

で、次に「北方領土は日本固有の領土」という話ですけど、
権利を主張する以上こう言うしかないのはしょうがないんですけど、これ間違いない!
って言い切れない感じですよね。

「国という観念が生まれてまだ数百年」とか言ったら
急激に左翼チックな話になってきたと警戒されそうですが、
あの辺はアイヌの人達が住んでましたよね。
というか北海道の地名はアイヌ語が由来してるのがほとんどだと思うので、
だいたい北海道ってアイヌ人から奪い取った土地ですよね。
かなり適当に言ってるので間違ってるかもしれないですが、
「固有の領土だから返せ」って言われたら
日本は返してもらった後アイヌの人に返さないといけなくなります。

アメリカ人にアメリカをインディアンに返せって言うようなもんです。
いや、僕は返した方がいいと思うんですけど、
あいつらマジ空気読めないから多分ずっとあそこにいるでしょうね。
(いつものアメリカ批判)

とまぁアメリカはどうでもいいんですけど、
一面として力が領土問題に左右してたのも事実だと思うんですよね。
ただですね、あの頃と較べてそういうのをあからさまにするのは止めよう
っていう世界的コンセンサスが少しずつ作られてきて現在があるとは思うんですね。

それでもまだ力関係が現存するのは事実で、今の日本の発言力とロシアを較べた場合、
日本の言い分が通るとは思えないんですよね。

というよりも、そもそも発言力を持つのは国家なんですけど、
今は日本人自体が国家の力を解体する方を選んでるんですね。
「官を排して民につけ」とか言ってるじゃないですか。

軍事費もムダだからカットしようとかやってるんですよね。
ロシア・中国・アメリカはたしか上がってるんですよ。
ヨーロッパは減らしてるんですけど、
それとてユーロ全体でやるから国別では減らそうって話だと思うんですよね。

ちょっとズレるんですけど、経済的にガタガタになったアメリカが軍事費を減らすかと言うと
そうではなくて、今までの権力を保持しようとしてより軍事に傾くと考えた方が自然です。
まぁもう軍事に頼るしかない状況です。
で、アメリカが増やしたら、他国もバランス上増やすしかないので、
全体的に軍事費は上がっていくはずです。
もちろん発言力は軍事力だけじゃないんですけど、
他国が増やしてる状況でキープもしくは減らしたら発言力は低下します。

まぁ要は日本人は自国の発言力とか一切考慮してないんですよ。
なのに領土問題になると思いついたように「国益」とか言い出して頑なになるんですよね。

日本人が日本を思い出すのはオリンピックとW杯とWBCと領土問題の時だけなんですけど、
確かに領土問題は国益に関わる一大事なんですけど、
それ以前に日本の在り方とか一切考えてないのに
領土問題の時だけ突っぱねるのはおかしいと思うんですよ。

国益って言ったっていろいろあるはずなのに、
だいたい言う時は「有形」の国益しか取り上げないんですよね。
確かに経済水域が拡がったり、そこにオイルがあったりしたら凄いメリットですけど、
延々と「無形」の国益を無視して生活に寄り添うのは妙です。

日本が単に生活に便利な場所なだけでいいなら
国境を取り払って世界で分業しろって話になる訳で、
国益とか言ってる「日本を大事にする」方々は是非それを主張すべきだと思うんですけどね。

北方領土自体の問題に戻るんですけど、現実として二つの道しかないと思います。

①二島で終わらす
②四島ともあきらめる

なぜ四島戻ってこないかと言うと、四島を主張すると時間が途方もなくかかります。
そうなると、今現実には四島はロシア領でロシア人が住んでるんだから、
「時間の効果」で逆にロシア領と認めざるを得ない状況になります。
時間がかかればかかるほど北方領土は「ロシア」に近づいていきます。
日本が日本領土だと主張してるのも
「日本人が昔住み着いてかなり経っているから」というのが理由なので、
理由はどうあれロシア人が住み着いて時間が経ったらロシア領になるのは普通です。

なら、二島で解決がいいのかと言うとそれが難しくて
かの行為が侵攻であったというのを認めさせて、
二島で手打ちって言うのは主張の意味が減る妥協なんですよね。
(結果としてロシア側のメリットを認める事になる)

それこそ「有形」の国益を優先するって言うある意味現実主義なんですけど、
ただゼロより2がいいって言うのも一面の真実です。

加えて言うと、二島で終わらせる場合は早めに決断しないといけなくて、
プーチンみたいに無理矢理でもまとめてる今しかない訳で、
プーチンの影響力が落ちると
ロシアは軽い混乱に陥ってそもそもまともな交渉が出来なくなります。

僕の中では結論が出ていない部分なので、どちらがいいのかは保留させてもらうんですけど、
とにかく「侵攻であった」ことは認めさせないといけない事は確かです。
これがどの程度の難易度なのかは外交官じゃないので分からないんですけど、
ロシアがあくまでも認めないなら四島を捨てる覚悟でも主張しないといけないと
僕は今は思ってます。

今言ったような積極的②と、①の選択は難しいのですが、
現実に起こる事はおそらく消極的②でしょう。

日本人は一体何が問題であったのかすら理解できずに
ソ連の侵攻は見過ごされソ連の約束破りをただ責め、
北方領土は日本固有の領土であると言い、
有形の国益だけを延々と世界の極東でつぶやいて気がついた時には
北方領土にロシアの風格が備わり、
「日本は交渉する価値すらない国だ、
いやそもそも国ですらない」とかバカにされてゲームセットです。

・・・あ、今から「けいおん!」の話していいですか?(手遅れ)

天上界はなくならない

社会系評論
05 /14 2009
今回は「天上界オワタ」とあいばさんがマスメディアの崩壊を煽るので
ちょっと異を唱えておこうじゃないかという企画倒れです。

言葉遊びで恐縮なんですけど、
天上界はまず存在するかしないかが誰にも証明しようがありません。
もっと言うと存在すると思っている人には天上界は存在するし
存在しないと思っている人には存在しないんです。

まぁタイトルは言葉遊びで、天上界の「不在証明」は誰もできないということです。
というかですね、天上界っていわば神のおわします世界ですよね。
まぁマスメディア関連の人が見てるとも思えないのでノリノリで言うと、
マスメディアごときが天上界なワケないじゃないですか。

自分でもいじわるな意見過ぎて嫌な奴だと自覚してるんですけど、
マスメディアを天上界だと一番思っているのはあいばさん自身なんじゃないか
と言わざるを得ないんですよね。
もちろん天上界って言うのは比喩表現なのは承知してるんですけど、
あいばさんは言葉のプロな訳で、
言葉の仕分けに関しては少々厳しく言わせてもらいたいと言う事です。

だいいちインターネットで個人の力が強まったってホントなんですかね。
それだとgoogleとかヤホーとかマイクロソフトってなんなんですかね。
結局インターネットも組織に整備された環境であって、
その舞台で「個人の時代が来た!」って言ったら
セーフかアウトかで言ったらトリプルプレーだよね(ゴメン言い過ぎた)。

ネットが台頭してきてもデマで人が右往左往するのは何も変わってないわけで、
ただそのデマが光の速さで伝わるようになっただけの話だと思うんですけどね。
(要は状況は悪化している)

こんな感じであいばさんをダシにしつつ、
今回の本丸は状況に規定される思想なり言葉を吐くのは
ちょっとマズいんじゃないかと言う事です。

僕も人の事言えない部分はあるんですけど、
と言うか人は誰しも置かれている環境で考え方も変わってくるんですけど、
冗談抜きでまさか人がこんなに自分の置かれてる状況に左右されて意見が変わるとは
思ってなかった今日この頃なんですけど、
リアルで周りでもそんな感じに変わっていってるんですよ。

リアル知人曰く、「派遣がないと企業は存続できない」とか言うんですけど、
いやそうなんでしょうけど、
派遣がないと存続できない企業の在り方に疑問とか感じてないのかなと。
いや(自分で否定した)、勝手に知人の気持ちを想像すると、
派遣斬りとかの矛盾を強く感じているが故に、「痛みを感じない」方向に
考え方の舵を切って「しょうがない」と思ってる内に
それが事実だと思うようになると推察せざるを得ないんですよね。

どんだけ上から目線でボロクソ言ってるんだと
自分でも正直スマンな感じなんですけど、
これを状況の奴隷と呼ばずして一体何と呼ぶとそっと小声で叫びたいのです。

つまり環境の不自由さよりもそれによる思想の不自由さの方が遙かに問題で、
考えを「思いついている」んじゃなくて、状況に「思いつかされている」んですよね。

単にこれは組織に入ったらそうなるって言ってる訳ではなく、
孤立しても同じで、自分を甘やかす論理を組み立てて
それに無批判になるのは「ただ生きてる」事になりはしないかと言う事です。

「僕もそうなのかも知れない」という自戒は込めてるつもりなんですけど、
傷つかない方傷つかない方に進んでいるのは単に痛みに支配されてるだけで
自分が選び取ったって言わないよねってまぁ繰り返しになりました。

ちょっと話が変わるんですけど、
現代(というか昔からなのかもしれませんが)の恐ろしさは
成功という名の先頭グループを滑走しようとしたら、
「なぜ先頭グループにいる必要があるのか」と言う事を考え出すと
置いて行かれる点にあると思います。

そしてもっと恐ろしいのはこれが閉鎖空間でのグラウンド走なんですよね。
オレはあいつに1周差つけたとか2周差とか言って競ってるんですけど、
100周走ろうが1万周走ろうが結局同じ所をぐるぐる回ってるだけです。
誰もなんも変わってないのに走るのを止めたら落伍者とか落ちこぼれとか
レッテルを貼られて非人間扱いされます(極論)。

要は「考えないでただ生きてる」ことが月並みな成功の条件になってるんですね。
まぁ当たり前の話なんですけど、
ゴールが所与ならヨーイドンで全力ダッシュした人間が勝つに決まってる訳で、
「あそこが本当にゴールなのか」とか言ってたら負け組です。
イヤらしい所はこの成功って言うのが金メッキだったらいいんですけど、
妙に重みがあるもので無下に出来ないんですよね。

僕の言う事が「所詮負け組のたわごと」と言われてもまぁそうかなと思うというか、
成功したい人は成功したい訳で成功すればいいと思ってるんですけど、
「成功」についてもうちょっと自分で考えようとかそんなん(適当になってきた)。

かと言ってだったらオレはうんこをグラウンドに描くぜ!
とかやってもダメな事は明らかなので(かがみさんはキチンと否定)、
本当はグラウンドから外に出るルートを探さないといけないような気がします。

じゃあどうやって外に出るかみたいな話になるんですが、
現代人は「外に出るルートはない」と主張するのが流行りです。
確かにそうな部分はあって、外に出るルートだけトライし続けてると
どうしても生きていけない部分が出てくるので
結局グラウンドを走らないといけないんですけど、
頭の中では悶々と外に出る方法を妄想しながら
たまには試してみるのを「まぁまぁまともな生き方」としたいという主張です。

明らかに途中なんですけど、今日はこの辺で。

個性と集性 ~野球編~

社会系評論
05 /09 2009
今日はどこの影響でもなくごくたまたま個性について考えたので述べてみたいと思います。
なぜか僕には例え話をしようとすると野球か将棋が思いつくという
俗っぽいというかしょうもない癖があるんですが、今日は野球で行きます。

野球という競技ではいろいろな個性を持った選手が集まっています。
プロ野球で仮に僕が監督だとすると、
選手は試合に出たいからおそらくいろいろなアピールをしてくるでしょう。

「俺は足が速いぜ!」

ふむ、足が速いと攻撃面では内野安打が増えるし、守備では守備範囲が広い。
代走にも使えるし、こいつはなかなか使えるかもしれん。

「俺は球が速いぜ!」

ふむ、球が速いとはピッチャーに適しているかもしれない。
守備に付かせても肩が強いから守備力が高いので守備固めでもいい。
こいつも捨てがたい。

「俺は球を遠くに飛ばせるぜ!」
「俺は球を当てるのが上手いぜ!」
「俺は球をコントロールするのが上手いぜ!」
「俺は球を変化させるのが上手いぜ!」

ああ、みんな捨てがたい。どれもこれも上手に使えば勝利に役立つじゃないか。
誰を起用するべきか悩ましい・・・

「俺は野球はイマイチだけど盛り上げるのは上手いぜ!」

成程。試合には出さないが、ベンチに一人盛り上げ役がいるのは大事かもしれない。
勝利と選手の士気には関係があるだろう。
そこそこ野球が出来る奴よりこいつをベンチに入れたほうがいいのかも。

「俺は野球はイマイチだけど観客のみんなに人気があるぜ!」

・・・うーん、人気があるか。プロ野球とて客商売。
お客さんが入らない事には生きていけない訳で、
こいつが出れば普段より人が入る。人が入った方がみんなモチベーションも高いだろう。
多少野球が下手でもメンバーに入れておいた方がいいのか・・・。
フロントもおそらくそれを望むだろうし・・・。

「俺は野球は下手だけどチームのみんなに好かれてるぜ!」

おそらく人間的にいい奴なんだろう。
しかし下手だから試合には使えない。
クビにしたい所だが、そうしたらチームの奴らはどんな反応をする?
こいつも残しておくべきなのか・・・?

うーん・・・なんかちょっと趣旨からズレてきたような・・・

「俺は野球の球でサッカーするのが上手いぜ!」

???
い、いや・・・

「俺の帽子は常に回転してるぜ!」
「俺の背番号は見る角度によって違って見えるぜ!」
「俺はみんなが理解してる野球のルールが全く分かってないぜ!!」

(ブチッ)あああ~、もうお前ら野球しろ!!野球!!

・・・と言う事だと思うんですよ。(イミフ)

おそらく比喩が下手すぎて全く伝わってないと思うんですが、
とりあえず野球という競技の中では試合に役立つ部分が個性として認められる訳で、
まぁちょっとプロ野球にしてごまかした部分があるんですけど、
「人気」って微妙じゃないですか。
多分国際大会とかだったらそんなの評価されないと思うんですけど、
プロ野球だとプラスになったりします。
ただ実力が伴わないと客寄せパンダとか呼ばれて暗に批判はされるんですけど。
最後の方はわざとトホホな事例を出したんですけど、
たしかにこいつらは部分的に見たらオンリーワンなんですけど、
僕が監督だったら世界ビックリショーとかその辺に行ってくれって感じだと思うんですよね。

要は野球というルールが決まってから個性が確定する訳で、
もし野球が「ビックリさせたら1点」とか言うルールだったら
後半の人達も個性として認められる余地があるのです。

ルールが決まらないと個性は活かしようがないというか、
そもそも存在しえないので、
簡単に「ルールは個性に勝る」としておいたほうがいいのではないでしょうか。

そうなるとルール形成についての話をしないといけないのですが、
ルールというのは一人で決める事はできず、
集団なら集団のある程度の総意が必要になります。

個性が大事ではないと言っている訳ではなく、
「個人の性質」の話をするなら「集団の性質」の話もしないとダメだよねって事です。

そう言う意味では国柄を大事にするって言うのは
お互いの「集団の性質」を大切にしようと言う話で、
ここは個性とは仕分けた方が理解するのに分かりやすいかもしれません。

知ったかぶりで言うなら、オリジナリティの語源はoriginつまり起源です。
起源とは何かというと人間が根底に持つものと捉えると、
当然人間はたくさん居るので全体の話になります。

つまりオリジナリティとは
「人間存在そのものの根底に訴えかけるその人個人の持つ方法」ということであって、
「その人個人の持つ」だけで人に訴えかけないものはオリジナリティではなく
単なる珍妙な表現です。
大切なのは訴えかける事で、
できあいの上っ面の表現は「人の根元」には訴えかけることはありません。

バットを持たずに竿だけを持ってバッターボックスに立った人間は
そこからどうやって観客の心を動かすのでしょうか。
ピッチャーに洗濯物を持たせたら服は乾くのかもしれませんが。

・・・アレ?意外と面白いかも!(最後はごまかした)

エコと自裁

社会系評論
05 /08 2009
みんな集まったー!?
今日はみんなと一緒にエコについて考えようね!(歌のおねえさん風)

最近からなのかいつぐらいからなのか分からないんですけど、
エコが大事とか言われて久しいじゃないですか。
あれうぜえ正直エコと言われてもピンと来てない所もあるんですけど、
たぶん地球環境に優しい行動がいいとか言う話ですよね。

なんか食べ物を大切にとかそーいう道徳的なミクロな話から、
風力発電っていいよねとかマクロな話までエコが大事だって言われますよね。

まぁ僕って多少歪んでる所があるんで、CMで「エコな車に乗り換えよう!」って言われても、
そもそも車がnotエコ&テレビ消した方がエコ故にCMを作るお前ら問題みたいな風に
言わざるを得ないのかなと。

だからって夏にエアコンガンガンかけて寒いからコタツに潜り込むぜ
みたいな暮らしを擁護する気はないんですけど、
普通に生きてる人にエコエコ言うのもうっせーなって話じゃないですか。

そもそも生きて何かに働きかけるって事はエネルギーなり資源なり使う事になる訳で、
使わない事がエコって話になったらみんなでレッツ引き籠もりって話になるじゃないですか。

ちょっと話ズレますけど、もうけるにはどうすればいいかみたいな話をしてる時に、
とにかく経費カットで費用を抑えるって言うのがエコ的発想で、
収益を増やそうぜみたいな話を一切無視するというか、
そこは所与だとして考えてるような気がするんですよね。

とりあえずこの話で放置されてるのは、「なぜ地球環境に優しい行動がいいのか」という点で、
継続可能だからとか住みよくなるからとか他にもあるのかもしれませんが、
結局人間サイドの都合じゃないですか。
いやいや他の地球生物にも気を配ってますよと反論されるかもしれないんですけど、
それとてなんかそーいう動物が絶滅するのはいやだぜっていうこっち側の都合ですよね。

よく知らないんですけど、人類の歴史は自然との戦いだったはずで、
負けっ放しだったのがつい最近勝てるようになってきて、圧勝できるようになった。
ただ圧勝するとこちら側にも不利なのが分かってきたからちょっと緩めようぜって言うのが
今のエコって事なんじゃないですかね。

何が言いたいのかというと地球環境とか持ち出すと妙に美談チックになるんですけど、
結局手前の問題を話してるだけだよねって事です。

人の暮らしの中で利便さで見過ごしにされてる事実っていうのは割合あって、
例えばどの程度影響があるのかは知らないですけど
地球環境のために今パソコン消せとか部屋の電気消せとか言われても
正しいと思っても自由とか権利とか訳の分からん事言ってやらないじゃないですか。

現に僕もノリノリで夜中にパソコン使ってこんな愚にもつかない駄文を書いてる訳で、
エコ団体からいつ抹殺されてもおかしくないですよ(そんな団体あるのかどうか知らんですが)。

そう考えていくと一体どの辺にエコの素晴らしさとかがあるのかが分からないんですよね。
少なくとも本気では言ってないですよね。
どっちみち今の便利な暮らしを自ら規制するって話にならないとおかしい訳で、
その行為なしのエコっていうのは他人任せのごまかしですよね。
技術改良によってほんのちょっとエコな商品に買い換える行為のどこに
一体素晴らしさが宿るのかをちょっと教えて欲しいんですよね。

タイトルに繋げるためにここでこっそり最大のエコを教えると、それは自殺です。
(一応親切で言っておくと、自殺を推奨してるわけではないので、
死にたい人は勝手に死んで下さい☆)

技術革新じゃないのかと思う人がいるかもしれませんが、それではゼロにはなりません。
例えば僕が死んだら僕が消費するこれから先の何十年かのエネルギーは全てカットされます。
節約なんて比じゃないレベルでエコなんですよね。
「この世にかけがえのない自分」だから死んじゃダメと言われるかもしれませんが、
たしかにそうなんですけど、かけがえがない事と
生きてていいかどうかはまた別問題なんですよね。

まぁ当たり前の話なんですけど、何かを消費しないと生きていけない訳で、
何かを消費した分だけ何かを作り出さないといけないと考えるのが普通です。
別に今何もしてない人に死んで下さいって言っているのではなく、
将来的な見込みも含めての話で、「何かを作り出すであろう」と思える人は
多分生きてていいんじゃないですかね。(偉そう)
何かを作り出したいという「意志」がある人も簡単には要らないと言えないと思います。

逆に言うともう何かを作り出すのを放棄しててひたすら「ただ生きてる」方々には
ご退場願いたいと言う事です。
バンプの歌詞じゃないですけど、
生きてると言う事は地球上の一人分の場所を占有してるんですよね。
未来の一人分の場所を取っておいてノホホンとしてるのは
「エコ」じゃないんじゃないですか?

今のエコ活動が放置しているのは、一体何のためのエコなのかということです。
人が生きていくためなら、なぜ人は生きていく必要があるのかを考えないといけないはずです
(本能とかそういうつまんない解答抜きで)。
なんのために一体いろんな所からエネルギーを簒奪してまでも生きるのか。
そこを考えないことが思考の「エコ」だというなら、
貴方と一緒に奈落に落ちることがエコだと答えましょう。

(オチは節約しました)

おじいちゃん達カネ使っちゃいなよ

社会系評論
04 /29 2009
定額給付金がそろそろいろんな人に回っていく時期なんですが、
そもそも定額給付金が意味を持つとしたら、
お金の巡りをよくすると景気が良くなるという考えが前提にあると思います。
僕は経済学なんて知らないから適当にも程がある与太話なんですけど、
つまり誰かの消費は誰かの売上になるので、誰かが使ったら誰かが儲けてるから
その流れでまたお金が戻ってくる→また使う→また戻ってくるで、
その流れがある程度の期間正常なら買った物が残るから
みんな助かるよねみたいな話なんだと思うんですよね。

お金に関しては循環速度が大事な訳で、
そう考えると定額給付金はどの程度それを助けるかみたいな事を考えると、
一瞬のブースターに過ぎないだろうなと漠然と思うしかないんですが、
まぁ実は定額給付金はどうでも良くて、
今日はお金の価値を再定義するという神をも恐れぬ行為にレッツトライ!です。

お金がなぜ価値を持つのかみたいな話になると、最近は流動性で語られるというか、
お金って何にでも代えられるから便利→だから価値を持つ
みたいな話がスタンダードなのかなと言うか
たぶん教科書とかにもそう書いてあるハズです。

で、それは間違いではないんですけど、
要はみんなが価値があると思ってるから価値があるんだよねみたいな
トートロジーに行き着くんですが、
正直交換価値だけでお金を語っていいのかなと思うんですよね。

詳しく話さ(せ)ないんでなんのこっちゃと思われてると思うんですけど、
お金は何にでも代えられる(ように決まってる)から価値があるんで、
そうじゃなかったら紙切れですよね。それは結構みんな知ってる話なんですけど、
交換して何かを手に入れるって事はお金を手放すって事ですよね。

つまり、それが今持ってるお金が無くなっても
何かを欲しいとかそれが意味があると思ってるから交換する訳で、
「それがあるならある等量のお金は要らない」という状況なはずです。

超簡単に言うとジャンプ買って読んで感想アップするメリットに較べたら
250円なんて安いもんだぜ!とどこかしらで思っているから買うのです。
(簡略化しすぎだけども)
逆に言うと、ここでお金を使ったら資金循環が良くなって
世界が好況になるとか思って使う人はあんまりいないんですよね
(ジョークでは割合使われますが)。

お金は使うって選択肢と使わないって選択肢があります。
使うって選択肢をすると何かが手に入ってお金は無くなります。
使わないっていう選択肢をするとその分お金は貯まります。
(普通すぎてすまない)

先の話で言うとある程度使うっていう選択肢を
チョイスしてくれる人がいないと景気は良くならないんですが、
景気が悪くなると使わない人が増えます。
要は先行きが不透明なんで将来困るかもしれないから使いたくないぜって事なんですけど、
「使わない」という選択肢でその先の不安を緩和してるんですね。
「お金があるから大丈夫!」という状態です。

実際お金がないと生きていけないんで間違ってはないんですけど、
「信じるモノはお金のみ」という状況が高まるとよりお金は使われなくなります。
ここで意図的に経済的な話からハミ出したんですけど、
今は社会的にお金そのものの重要性が高まってきてるんですね。

例えば個人資産が1400兆あるからそれ使って欲しいよねとか
レッツ投資とか言われても、そもそもおじいちゃんおばあちゃん達は
先の収入もないし頼れる知り合いも居ないし安心できる社会的紐帯もないし
国もアレだしやっぱお金だよねという事になってるんじゃないかなという気がします。

「お金が大事」なら、文字通り大事だから持ってて使わない→循環しない→不況、なのかなと。
これから抜け出すためにはお金の重要性を低下させる必要がある訳で、
今手放して無くなってもいいよねor今手放しても戻ってくるよね
と皆が思ってくれる必要があります。

人の考えを変える必要があるんで、
物理的な量的緩和とか財政出動とかは大きな意味を為さないんですよね。
ぶっちゃけ利率をいじったら資金量がとかって言う話は
枝葉の部分だと思うんですよね(経済学ほぼ否定)。

逆説的な話になったので嬉々として書いてるんですけど、
お金の重要性が低下した方が資金循環は良くなるんですよね。
これは「金なんてたいしたもんじゃないけど巡ってきてるぜ」という状態で、
まぁこの状況に持って行きたいわけです。

で、この状態に持って行くにはどうすればいいか。
適当に言うと、おじいちゃんおばあちゃんがいる人は肩を揉んだり、
農地があるなら耕してあげたりすればいいのです。
じじばばが若人がいればなんとかやっていけるわいフォフォフォと思ったら
お金の重要性が低下します。
そしたら耕してくれるなら新しいクワでも買うかとかそういう話になるのです。

まぁまんまと詐術的な話で経済学をトランスできて個人的に満足です。
こんな画期的な経済対策を言ってる人はいないですよ。
凄いと思った人は僕におひねりをば。それが好況への第一歩ですよ。
(もうしばらく不況は続きそうです)

補足:お金には交換価値に加えて不安を和らげる効果がある
 が、その効果は循環にとってマイナスになる面がある
 その効果を減らすためには他の要素で不安を和らげる必要がある
 よっておじいちゃんの肩を叩くべし

北と戦う準備と覚悟はできたかい?

社会系評論
04 /02 2009
たまには2連投で。
こうしている間にも北朝鮮の「人工衛星」ミサイルの発射時間が刻一刻と迫っております。
もしかしたら漫画とアニメとゲームで忙しくて何も知らない人がいるかもしれないので、
予断と偏見たっぷりで情報をまとめると、

・北人工衛星目的とミエミエのウソでミサイル発射予告
・日本、アメリカそれふざけるな的意見(国連なんとかに違反とか)
・北、ミサイル撃ち落としたら戦争と捉える発言
・アメリカ、北にはいつもの及び腰発言
・日本、相変わらず困るだけ

結論から言うと、ミサイルは発射されて日本は何もできずに
発射後に経済制裁を強化とか国連にチクるとかで終わって
またナメられて終わるのがオチなんですが、
それは麻生総理が悪いとか政府の責任じゃなくて日本人の責任なんですね。

つまりですね、「戦争」ってフレーズが出た時に
思考停止してる人が多いんじゃないかなと思うんですよね。
北のミサイル発射ふざけるな!までは行くんですけど、
撃ち落としたら戦争ですよって言われたらそれは困るってなってる人が多いのかなと。
あまり話題にもなってないみたいなんで、大方の人は見て見ぬフリなんでしょうね。

ここでミサイル防衛構想って言う高度なアメリカンジョークがあるんですが、
詳しくは知らないんですけど
なんか飛んできたものは全部ミサイルで撃ち落とすって話なんですよ。
つまりミサイルによる「絶対防御」なんですね。

僕から見るといよいよ国家の中枢にオタクが入ってきて
国防も妄想でする時代になったんだなと感慨深いんですが、
このアメリカの構想に日本も付き合わされてメチャクチャ金出してるみたいなんですけど、
普通に考えてどんなに科学技術が進んでも「全部」撃ち落とすのは無理な話で、
残ってしまった1発が核だったら甚大なダメージを受けるんですよね。
それならなんのためのミサイル防衛なのかと思うんですけど、
それは置いといて今どうせやってるんだったら
北のミサイルを撃ち落としても構わないんですよ。

まぁ実際撃ち落とせるかどうかは分からないんですけど、メリットはあります。

・本格的な予行練習になる
・北をビビらせる

問題はここからで、撃ち落としたら「戦争」だって北は言ってるんですよね。
実はこれは北の方が正しい訳で、名目上人工衛星として撃ち出した物を撃墜したら
それは向こうが攻めてきたと捉える事は充分に可能と言う事です。

技術的な事は分からないんですけど、
おそらく撃ち落とした残骸を調べても人工衛星っぽく見せるぐらいの仕掛けはしてるはずなので、
間違いなく軍事目的(これ自体プラス将来の)なんですけど、その尻尾は掴めないんですよね。

ここで言える事は一つで、戦争大いに結構じゃないかということです。
簡単に言うと、ミサイルを撃ち落として戦争状態になったとして、
世界的に見て明らかに日本が侵略で悪いという状況にはなりません。むしろ正当防衛です。
そして戦争になる以上、「白黒」付けさせてもらえるんですね。

戦争にあっちがどんな攻撃を最初にしてくるのかは分からないんですが、
日本側でも死者は出ると思います。が、その瞬間が北の終わりなんですね。
表だって北の味方をする国はありません。戦力的にも相手になりません。
つまり、本気出したら簡単に潰せるのが北朝鮮の実態であって、
それ以上でもそれ以下でもないんですよ。

要は「戦争」と「核」で脳と体がフリーズして
北という中学生相手にサンドバックになってるのが日本なんですね。
北の未熟な核でも落とされたら大量に人が死ぬのは事実です。
ですが日本人全員が消えてなくなる事は無い訳で、
むしろ僕の住んでる所に落としてくれ、それが世界平和への第一歩だってことです。
まぁ僕の周りの人からしたら止めてくれ!って言うと思いますが・・・。

あとはアメリカが手伝ってくれないからって言うのでできないんですけど、
アメリカは北にはずっと対話路線なんですね。
これもとんだダブルスタンダードなんですけど、
明らかに大量破壊兵器を保有してる北に対話で、
持ってなかったイラクに攻撃ですからね。
それに真っ先に参加したのが小泉純一郎率いる日本で
それに万歳三唱したのが日本国のみなさんなんですが、
もうなんか書いててムカついてきたので止めますが、
アメリカ頼ってても何もやってくれないのは普通ですよ。

例えばアメリカの近くに侵略国家があってアメリカ攻めるぞ~って言ってても
日本から見たら「ふ~ん」って思うだけでしょ。
アメリカの兵士が日本人のために死んでくれる訳ないじゃないですか。
それとも日本人はアメリカ人のために死んでやれるんですかね。
まぁ経済的には素晴らしい犠牲精神で似たような事やってますけど。

麻生総理はミサイル問題は割と頑張ってるんですけど、周りが付いてこないんですよね。
世論自体が撃ち落としてでも阻止すべし、それが戦争になってでもと
言えればまた違ってくるのかもしれませんが、事なかれでという事みたいですし。

妄想なんですけど、逆にミサイルが発射された残骸で死者が、
とかデッチ上げて北を攻め潰してもいいんじゃないですかね。
少なくとも日本としては、
戦争も含めて「準備」と「覚悟」をしておかないといけないのです。
具体的な準備と覚悟は国と軍人がやるのですが、
パンピーの僕たちは戦争になった時の避難方法と
仮に死んでも誰も恨まないぐらいの気持ちは持っておきたい所です。
せめて僕とこれを読んでくれた人ぐらいはそうしておこうよと言った感じでしょうか。
合わせて5人くらいにはなりますかね。いや、3人くらいかな(笑)

最後にもう一度問います。

北と戦う準備と覚悟はできたかい?

ひたすら俗から聖を考えてみたい

社会系評論
04 /02 2009
師匠と遊んでたら3月が終わりました。けったです。
いやー、でもあの一連の書き込みは僕じゃない・・・って
もう4月1日は終わってましたね。

いろいろちょっかいを出した中で、
「魂は信仰なのか」という問いに答えてもらったんですが、
実は魂が信仰かどうかよりも信仰自体をどう捉えてらっしゃるのかに
興味がいっていたので、自分でも信仰の話をしようかなと思います。

「信仰」なんて軽々しく語れないものの筆頭なんですが、
ここは若さ故の過ちを利用して割とまっすぐ行こうかなと思います。

と言いつつタイトル通りいきなり聖から離れて俗を語り出します。
俗の反対語が聖じゃなくて雅らしいんでいきなり挫折しそうなんですが、
気にせず行こうかと思います(気にして!)。

思いつきのきっかけは本を読んだからなんですが、
正直に読んだ本を挙げると、
春日武彦著「問題は、躁なんです 正常と異常のあいだ」
という本なんですが、躁状態になると願望が極端に俗っぽくなるらしいんですね。

適切に引用は出来てないので気になる人は原典を当たって欲しいんですが、
躁状態になると、女性で言えば露骨にブランド品に走ったり、
金ピカなものを買ったりします。
ホストクラブで豪遊してる中には躁状態の人がいるようです。

男だとせっかちで豪胆になって、パンピーなのに
「社長になったらベンツだな」とか言い出して金もないのにキャバクラで豪遊、
その上セクハラしまくって「英雄、色を好む」とか言い訳したり、
ギャンブルに有り金全部はたいて無くなったあとに
「俺は男だ!」とか訳の分からない言い訳をするらしいです。(引用っぽいの終わり)

どうしても笑ってしまうんですが、(むしろ本書は躁の複雑な様相を書いた本でつ)
ここで言いたいのは躁病の人をバカにしたい訳ではなく、
むしろ病気でもないのにバカな人の方が問題だよねとか
相手が漠然とした問題発言は置いといて、
お金が欲しいとか異性にモテたいとか
地位や名誉が欲しいって言うのは誰にでもある欲求だと思うんですが、
それが度を越した上、異常の域にまで達すると、
やはりそれには「嫌悪感」というのを持たざるを得ないんですよね。

たまにある「所詮世の中は金と知恵」とかまぁ「地位」とか「名誉」でも良いんですけど、
実際に純粋にその原理で行動してる躁の人を見てるとやっぱり変ですよね。

この「嫌悪感」って言うのは一体どこから来るのかななんて考えるのですが、
要はこの嫌悪感のずっと向こうの逆側に「聖」があるんじゃないかと僕は思ってる訳です。
「聖」を感じるにはほど遠い現代を生きてるちっぽけな僕には、
こういった形でしか「Holy」を語れないのかなと申し訳なく思うのです。

俗へ向かえば向かうほど逆の状態を考えるのが普通の心理で、
そしてその時の方向はおそらく「聖」を向いている(はず)です。

近代日本はだいたいデフォルトでうちら無宗教だよねーとか
ヌカしていらっしゃるんですが、その割にはオカルトがはびこってるし、
科学とか技術への無批判の「信仰」がありませんかねと
言いたくもなるこんな世の中じゃポイズン(また反町)

実際僕が「聖」なるものを感じた事があるかというと、
それは幸か不幸か多分ない訳ですが、
やっぱり自然とか見てるとあーなんか人を超越した存在があるのかなとか
漠然と考えてしまいます。

僕より1億倍ぐらい感受性の強い人達がそこに神を見出して
神道を作り出してもまぁ普通なんじゃねーの?
とかなんか逆に信仰をバカにしてるような感じになりましたが、
何となく言いたい事は宗教はそれが存在するメリットがあるからあるんだよねって
言う話は基本同意するんですが、そこを強調しすぎて超越への志向というか、
「聖」なる感覚を軽視するのは少し違うんじゃないのかなと言う事です。

その感覚すらメリットだと言われたら困るんですけど、
自分が「感じられない」から「存在しない」って言うのは少し傲慢な気がします。
おいおいそれならオカルトも認めるのかとなりますが、
そこは伝統宗教に備わる「時間の効果」を信じると言う事です。
有り体に言うと、何千年も残ってきた事には何か意味があるだろって事です。

ちょっと話が変わって宗教を置いておいても、何かを信じないと何も出来ない訳で、
選択とか決断する時にはそれまでの思考を中断させる必要があります。
少なくとも「信じる」フリをしない事には何もできないのです。

要は基本的な行為には真善美を追い求める運動が備わるはずだよね
(もちそのカウンターとしての偽悪醜も含めますけど)という話で、
ここでかがみさんのアーティスト活動の話を唐突にすると、
かがみさんの表現は「美」ではなくその反対の「醜」を目指す表現なのかなと
思っているのですが、「醜」が生きるためには「美」が確立されている必要があります。

つまり「何が美しいか」が揺るぎない時にこそ、これが本当の美だ!って
言ってうんこを投げつける行為に意味が生まれるのであって、
「何が美しいかは人それぞれ」とか言うしょーもない事が言われてる時に
うんこを作ってもその行為がうんこだよねみたいな話になる訳です。

簡単に何が言いたいか言うと、偽悪醜を目指す行為は真善美のカウンターでしかないって事です。
俗を志向して極めるって言うのは常人には不可能です。
そしてその先に何もないのは前述の躁の人が教えてくれているような気がします。

ついでに言うと、「何が美しいかは人それぞれ」って言うのは相対主義で、
この意見を本気で通すとかがみさんのうんことダヴィンチの絵画の
どちらが美しいかの判断ができなくなります。
そんな脳みそはうんこなので、世の中うんこだらけになるんですが、
要はかがみさんと相対主義者は同じ穴のムジナなんですね。

かがみさんはパンクなので体制に逆らうのですが、
その体制自体が既に作られたものであって(ex.政府、官僚、政治家、伝統、既にある物とか)、
本当の体制は今は世間という得体の知れない化け物じゃないですか。

まぁ要はかがみさんは世間になんとなく漂う意見に棹さして遊んでるだけだよねって
また悪口なんですけど、「何に」逆らうのかが曖昧になって
逆らう事自体が習い性になってるんですよね。
そう言う意味では「何でも逆らうのが正しい」というのが
「信仰」の域に達してるような気がします。

簡単に言うと生きる上で単純に「信仰」を否定してしまうと、
イミテーションとしての「信仰」が取って代わるだけという事です。
そうやってイミテーションの人生を生きてるのが
現代日本人だと言ったらそれは言い過ぎでしょうか?(うん)

じゃあ一体模造品じゃない本物の生とはなんなのか、
本当に信じるべきは何なのか、
僕に答えられる訳がないのですが(逃走)、
そこには何らかの「真剣さ」が必要なのかなと思います。

普段真剣な人をバカにしてるのになんだ!
後半はかがみさんディスっただけじゃないか!と怒られたらシュンとなるんですけど(反省)、

まぁこのテキストをいじくって僕をバカにしてもらって
少しでも「生」と「聖」の関係に思いを馳せる人がいたらみたいなダジャレで締めます。

平和という仮設ゴールでフィニッシュするサブカル

社会系評論
02 /28 2009
今週のナルトを読んで思いを多少深くしたんですが、
最近のサブカルでは目標は「武力で平和」なんですね。
ここからいろいろネタバレするんでやまなしさんは帰ってもらえばいいんですが、
コードギアスもルルーシュが最終的には平和を目標としていましたし、
ガンダムダブルオーなんて味方側が武力で平和ですからね(2期は見てないんですが)。
というかあの枠は最近こればっかしですね。
たぶん竹田Pが今ハマってるとかその程度の理由なんでしょうけど。

「武力で平和」が好まれるポイントはどこなんでしょうかね。
一つには、程よい矛盾があるのかもしれません。
師匠の言ってる事を完全に悪用すると、
一端武力介入で混沌になる事で山を下ってる訳です。
でそれは平和から離れてるように見せかけて
実は平和というエベレストを登る前段階である、と言う事です。

「平和のためには多少の犠牲はやむを得ない」という事は
ややリアリズム寄りの意見なのかなと思います。
実際完全には否定できない部分もあり、
小戦争が大戦争を避けるための物だったりしたのは多分史実であるはずです
(具体例は学がないので出せません)。
が、よく考えたら「平和」って理想そのものなので、
アイディアリズムですね。
理想を叶えるために現実的路線を選ぶってあたりなんでしょうか。

どのあたりからサブカルでも平和が叫ばれ始めたのかが多少気になるんですが、
調べる気力がないので困ります(やる気出せ)。
ので、知ってる材料で大まかにやりますと、
オタキングがなんかなぜ敵は世界征服を目指すのかみたいな本を出してたはずです。
読んでなくてかがみさんのレビューを読んだだけなんですけど、
冒頭がナディアで庵野監督がなんでこいつら世界征服とかしたいんだ・・・
とか嘆いているシーンで始まるとかだったはずで、
世界征服って言うのは一つのスタンダードだったんじゃないかと思います。

ナディアは1990年なんで(ここは調べた)、というかもう20年近く前なんですね。
ここから5年経ってエヴァになると、エヴァの目標は心の安寧というか、
そのための自他同一化なんで、広義で言えば平和にあたるのかなと言えない事もないかなと。
でもエヴァは誰かのためにとか一切無いですから。あくまでもすべて自分のためです。

というかガンダムの存在をここで思い出したんですけど、
ガンダムはダブルオーの一期しか全部見てなくて、
seedとGガンを8話まで見て放置した程度の認識なので知らないんですが、
なんか常に争ってるイメージですね。
でも平和がゴールの争いではない・・・はずです。
逆に戦争のイヤーな所をアピールして
平和っていいよねーみたいな感じなんじゃないですかね(超適当)

でもなんかシードは割と露骨に平和とか言ってたとか言ってないとかですけど。
シードが2002年ですか、で、デスノートが2003年なんですね。
別にデスノートが「武力による平和」のエポックメイキングだとか言いたい訳ではなくて、
単に僕が思いついた中で目立ったという事です。

ライトの目標って「平和」だったと思うんですよね。
犯罪者のいない世界って多分平和な気がします。
で、そのために「デスノート」っていう武力を行使する訳で、
どう考えても「武力による平和」ですよね。
まぁライトは死んじゃったんですけど、死んだ事に関しては
個人的には因果応報だと思う訳で、
個人の判断で他人が生きるに足るかどうかを選別するって言うのは傲慢だと思うんです。

いつの間にやら定着した「武力で平和」なんですが、
結局世界征服がすり替わっただけなのかなと言うイメージがあります。
武力って言うのが昔より問題視されるようになった中で、
行使するためには「平和」というみんながなんとなく納得するものを
持ってこないと力を行使できないようになってるってことなんじゃないですかね。

これはある意味では偽善的な感じを受けるというか、
力の行使を見たときの爽快感が人にはあると思うんですけど、
それを素直に肯定できないなんやらかんやらの理由があり、糊塗してるのかなと。

「武力で平和」の中身も変わってきてると思うんですよね。
ダブルオーで言えば味方側がやってる訳で、一体どこに終着点を見出すんだろうかなぁと。
まさかおかげさまで武力で平和になりましたなんてまともな神経ならやれないですし・・・
(もっとも既にまともじゃないのかもしれないですが)

ナルトで言えばナルトが「わかんねぇ・・・」とか言ってるんですよね。
多分昔だったらそんなの知った事か!でぶっとばすとかが大いにアリだった訳で、
おそらく「武力で平和」が少なくともサブカル界では
「まともな意見」になりつつあるという状況なんでしょうね。
逆に言うと平和のためなら武力行使していいと言うコンセンサスが出来つつあるのかなと。
これはデスノートで言ったらライト圧勝エンドを肯定みたいな感じで、
なんかそっちに進んでるのかなと漠然と思います。

唐突ですが、「パクス」というのは日本語で言えば平定で、
強者による弱者を押さえつける形での戦争のない状態を指します。
要は武力で誰かがコントロールしての平和って言うのは、
押さえつけられる側の不満を残した形での平定な訳で、
そこからまた新しい争いが生まれるのは普通の話だと思います。
アメリカが世界の警察になって世界平和、って言うのを喜ぶのは日本人だけです
(いつものアメリカ批判)。

そうじゃなくても平和って言うのは達成されたら手段になる訳で、
というか目標はなんでも達成されたら手段になるんですけど、
その程度の目標なんだろうなと思ってるんですけど。

今の日本はいわゆる平和なんですけど、
この状態がゴールだとサブカルを嗜んでる方は思ってるんですかね?
それともライトみたいに些末な間違いさえ許されない
「完全な」平和を目指すつもりなんでしょうか。

それとも最早本当の平和はサブカルファンにとっては
サブカルの中にしか存在しないという事なんでしょうか。

なんだか妙に僕の心の平和がざわついてきたので、
これは終われというサインと勘違いして終了します。

大麻とはエヴァである

社会系評論
12 /21 2008
~とは~であるって直球すぎるけど仕方ないみたいな。
一度でいいから見てみたい、新春シャンソンショー、けったです(歌丸風)。
昨今の大麻ブーム(やる意味でも言挙げでも)に乗って言いたいこと言っとけと思います。
まずは賛成か反対か明確に示しておくべきなのでしょうね。

僕は大麻の吸引に関して反対します。

あのですね、賛成派の人たちは大丈夫なんですかね?
もしかしてもうトリップされてるって事を暗に示しているとしたら
それはそれで興味深いですが。

まぁでもですね、
反対派の人たちの理由がしょうもないから付け入れられてしまうんですよ。

一番駄目な反対派の理由が「健康を害するから」ですね。
これをやるとですね、「僕のカラダなんで不健康でいいので大麻吸います」
って言う人間を止められないんですね。
精神病との関連とか言ってもダメなんですよ。
病気になっても構いませんって言われて終わりなんですよ。
またこうなるとですね、水掛け論みたいな話になっちゃうんですよね。
「こういうデータが出てるから体に悪い」
「いや、大麻はこのデータでは体に悪くない」等々。

つまりですね、健康を害しないなら大麻やっていいのか?ってことですよ。
この点は後で述べるんですが、
僕はたとえ長生きできるようになるとしても大麻はダメだと思います。

ついでですが、この健康志向って言うのは現代の生命礼賛主義から来るんですね。
つまり、生きていたらそれだけで素晴らしいって考えです。
はっきり言ってそんな訳がないんですね。
それならなんでニートは批判されるんですか?
ニートは生きているから素晴らしいはずじゃないですか。
むしろストレスとか抱え込まない分長生きするかもしれないじゃないですか。
健康が一番大事なら現代の勤労は完全にマイナスですよね。
なのにどうして働くことが基本的にプラス価値で、ニートがマイナス価値なのか。

「勤労とは」とか言う話になるとまた厄介な話になるので深くは言及しませんが、
要は人は誰かのために存在するっていう価値観を良しとするってことだと思います。
この辺りの話が後からちょっと繋がってきます。

「大麻はダメだからダメ」って言うのに実は僕は賛成なんですけど、
いかんせん分かりにくいんですね。
なんにでも理屈がないと納得しないしょーもない現代人には通用しないんですよね。
「ダメだからダメ」って言うのは、つまり
「長い間ダメとされているものには理解できなくても理由がある」って事なんですね。
つまり、今まで生きてきた人たちが「大麻が流行るとマズい」って言ってるんですよ。
それをたかだか20~30年生きてきた人間が「理由が分からないから」とかいう
くだらない理屈で覆すことはできないんですよね。

「理由が分からない」と言う場合、
事象に問題があるか、当人に問題があるか、その両方かと言った所でしょうか。
人間が完全でない以上、「自分に問題がない」って言うのは
いつまで経っても言い切れないんですね。
事象に疑問を持つのも大事ですが、
自分の認識に疑問を持つのもまた重要だと指摘しておきます。

話が戻りまして、なぜ大麻がダメだと僕が思うのか。
もう直球で行かせてもらうとですね、

「大麻はひたすらに自意識を過大化させるだけだから」です。

つまり、大麻を吸った人間は他者に向けて開かれてないんですね。
そして、そんな人は人間として呼ぶに値しないと僕は考えます。

お前大麻吸ったこともないのになんで分かるんだよと言われると困るんですが、
本で吸った人の話を読んだイメージに加えて、
吸った人のことを「トリップ」と呼ぶ事から類推できるんですね。
「トリップ」って言うくらいだから、意識がどっかに行ってるんですね。
そしてそれはどこなのかって言ったら、他者と交流できないんだから自分の中なんですね。

ここでタイトルと繋がっていくんですが、
エヴァの特徴として「ひたすらに自意識だけを考える」って言うのがあるんですね。
シンジ君は延々と自分がどう思うかに囚われてるし、
アスカにしたって自分の事だけなんですね。
レイは自意識がないだろと思われるかもしれないですが、
「自分の意識を感じない」事についてずっと囚われてるという点では、
自意識について延々と考えてるのと同じなんですね。

エヴァの人たちが生きづらいのは、自分の事ばっかり考えてるからなんですよね。
エヴァで他人が出てくるときは、
「他人から自分がどう思われてるか」で、結局自分の事なんですよね。
他人がどんな気持ちでいるかみたいなことはほとんど放り出されてる訳です。

実は僕はエヴァで人生が変わった人間で、
いわゆるエヴァで哲学(笑)って蔑まれる種類の人間なんですが、
それはまた別の時に述べるとして、
今の心境としてはエヴァを擁護する気にはとてもなれないと言うのがあります。

人は自意識と他人に対して開かれた意識と両輪で成り立ってると思うんですよね。
つまり、「自分とは何か」って延々と自問自答しても辿り着けないんですね。
それが無駄じゃないですけど、それだけじゃ足りなくて、
他人との交流が必要になるはずなんですよ。
他人との違いで自分に気付くって言うのは普通のことなんですよ。

要は他人と全く交流する気のない人は人間じゃないんですよ。
大麻を吸うって言うことはコミュニケーションの拒絶を意味します。
そこが酒、タバコと違う点なんですよね。
酒、タバコも間違いなくドラッグなんです。
が、逆にコミュニケーションツールとして使われるんですね。
リラックスするという点では大麻も同じなんでしょうが、
酒、タバコは相手と違った角度で接するためのリラックスなんですよ。
それなら一人酒、一人タバコはダメなのかって言うと、
僕はあんまりよろしくないと思いますね。
ドラッグっていうのは依存がありますから。
アル中になるのは人格が無くなってしまうのでダメですね。
そーいう意味ではタバコのやり過ぎはまだマシですよね。
ガンになって死ぬだけで終わりですから。

大麻が禁止されてる理由から、
他者への関心の重要性に至るのが健全だと思うのが僕の考えです。

けった

月曜日の夜、スカートを直した

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